旧暦の正月五日は、中国の伝統的な風習で「破五(ぽう)」と呼ばれています。この日は本来、多くの家庭が財神(金運の神様)を迎え、様々な禁忌を解き、一年の吉祥と平安を祈る吉日です。人々は新春への期待を胸に家を出て、古い年の厄を払い、幸運が舞い込むことを願っていました。しかし、現実はそうした人々の願いを無情にも打ち砕いたのです。人々を出迎えたのは和やかな春の風ではなく、辺り一面を覆う黄砂と、昼間でも薄暗くなるほどの荒天でした。喜びと期待に満ちているはずのこの日に、異常気象が吹き荒れ、権力の象徴とされるものが次々と倒れました。幸運を祈ったはずが災いに見舞われるという強烈なコントラストは、瞬時に祝日の和やかな雰囲気をかき消し、言い知れぬ不吉な予感と皮肉めいた空気で大地全体を包み込みました。
吹き荒れる強風の中、山西省のあるサービスエリアでは五星紅旗(中国国旗)が掲揚台ごとなぎ倒され、周囲の通行人から次々と驚きの声が上がりました。北京では、空が黄砂でくすんだ黄色に染まり、真昼にもかかわらず夕暮れのように薄暗く、さらには不気味な雰囲気を漂わせる「青い太陽」までもが出現しました。そして何より人々の目を引いたのは、円明園のランタンフェスティバルで、本来なら華やかに輝いているはずの大型の龍船が強風に煽られ、冷たい湖水に無残にも転覆してしまったことです。壊れた船体が波間に漂う痛々しい姿は、岸辺を彩る祭日の華やかな装飾とあまりにも対照的でした。人々は希望を胸に祈願に出かけたにもかかわらず、容赦なく吹き付ける黄砂と一面の惨状を目の当たりにすることになったのです。こうした突然の異変は、人々の間に急速に波紋を広げていきました。
横転した龍船を前に、ネット上の議論は単なる事故への嘆きにとどまらず、歴史的な暗喩を読み解く方向へと発展していきました。「船」は、中国の近現代における政治的文脈において極めて特殊な意味を持っています。かつて、中国共産党はまさに嘉興南湖に浮かぶ一隻の「紅船(赤い船)」の上で誕生し、この船は政権の船出を象徴する絶対的な存在と見なされています。今、歴史の重みが残る皇城の跡地で、立派な龍船が狂風の中で転覆しました。「紅船の出航」と「龍船の転覆」という鮮烈な対比は、多くのネットユーザーの想像力を大いに掻き立てました。巷では「船に生まれ、船で覆る」という説が囁かれ始め、偶然起きたはずの転覆事故を、ある種の言葉にできない政治的な予言であるかのように語るようになったのです。
過去の出来事を現代になぞらえるこの感情に一旦火がつくと、人々は歴史の伏線を次々と掘り起こしていきました。ある人は明朝第十代皇帝である明武宗(正徳帝)朱厚照の故事を挙げました。この働き盛りの帝王は、かつて南巡の際に花船に乗り、誤って落水したショックから最終的に病に倒れて崩御し、結果として慌ただしい皇位継承を招きました。さらに人々に歴史の劇的な偶然を感じさせたのは、清末の西太后(慈禧)にまつわるエピソードです。伝えられるところによれば、当時頤和園内の大龍船も強風に煽られて転覆し、その後まもなく、西太后は中南海の儀鸞殿で崩御しました。その時の年齢もちょうど73歳だったのです。
歴史の伏線が現在に交錯し、人々の間に強烈な連想を呼び起こしています。円明園に隣接する頤和園は清末の衰退を目撃し、当時西太后が世を去った儀鸞殿は、民国以降に「懐仁堂」と改名され、現在ではまさに中国共産党中央政治局などの中枢機関が頻繁に重要会議を開く場所となっています。ネットユーザーたちが船の転覆事故、現在の最高指導者も同じく73歳という敏感な年齢であること、そして懐仁堂の歴史的な背景を繋ぎ合わせた時、名状しがたい戦慄が暗流のように人々の間に渦巻きました。砂埃が空を舞う正月五日、人々はこれらの散らばった偶然を、一つの意味深長な絵巻物として繋ぎ合わせたのです。これは、極端な異常気象と歴史の鏡像が交錯する中で、社会心理の深層にある複雑な不安と、先行きに対する暗黙の懸念を反映していると言えるでしょう。
(翻訳・吉原木子)
