もし、つい昨日まで賑わっていたクリスマスのさなかに、上海の警察署を覗いたとしたら……皆さんはまるで、シュールな喜劇の舞台に迷い込んだと錯覚するかもしれません。 そこにいたのは、強面の犯罪者たちではありません。狭い待合室で、うなだれながら調書を取られるのを待っているのは、なんと「サンタクロース」の集団でした。

 これは映画のワンシーンでもなければ、ジョークでもありません。2025年、中国のクリスマスの真実です。

 つい2日前、上海の長楽路で、ある若い女性がサンタの衣装を着て愛犬を連れ、道ゆく人々にリンゴを配ろうとしたところ、警察に連行されました。彼女が署内で目にしたのは、同じように「サンタ狩り」に遭った市民たちの姿でした。「温かいクリスマスを過ごそうとしたら、危うく留置場で過ごすところだった」――彼女のこの嘆きこそが、今の中国の異常さを物語っています。

 なぜ、リンゴを配っただけで捕まるのか。 中国には「平安果(ピンアングオ)」といって、中国語のクリスマスイブ(平安夜)のピンと「平」とリンゴ(苹果)のピンという同じ発音をかけて、平穏を願ってリンゴを贈り合う、若者特有の可愛らしい習慣があります。しかし、今の中国では、そんな些細な善意さえも許されません。

 12月初旬、街がクリスマスの装飾で彩られ始めた頃、当局はすでに内部通達を出していました。「西洋文化の浸透を防ぐため」、公務員や学生に対し、クリスマス行事への参加を一切禁じたのです。 更に、北京の様子は、グロテスクでした。有名な王府井のカトリック教会は、イブの夜、厳重な警備態勢で封鎖されました。祈りを捧げたい市民は、冷たい鉄柵の外から遠巻きに写真を撮ることしか許されませんでした。

 さらに異様だったのはショッピングモールです。クリスマスの飾り付けはあるのに、店内に流れているBGMは「ジングルベル」ではありません。なんと、共産党を称える激しい「革命歌(紅歌)」が大音量で流されていたのです。

 華やかな消費の場で、革命の歌を聴かされながら過ごすクリスマス。この時空が歪んだような感覚こそが、2025年の中国の現実なのです。

 実は、この奇妙な光景の裏には、今の中国が抱える、どうしようもない「矛盾」が見え隠れしています。 2025年、中国経済はかつてない冷え込みを見せています。街の商店主たちにとって、クリスマスは年末最後の書き入れ時であり、喉から手が出るほど売上が欲しいのが本音です。 しかし、政府は「西洋の祭りを祝うな」と圧力をかけました。 結果、ショッピングモール側が出した答えが、「クリスマスの装飾で客は呼び込むが、革命歌を流して政府への忠誠も見せる」という、あまりにも歪な妥協案でした。 「経済を回したい」という悲鳴と、「政治に従わなければならない」という恐怖。この二つの板挟みになり、中国の商業施設は今、フランケンシュタインのようなツギハギの姿を晒しているのです。

 しかし、こうした理不尽な締め付けは、逆に人々の「反骨心」に火をつけました。 「やるなと言われると、余計にやりたくなる。」行き場のない閉塞感は、予期せぬ形での爆発を生みました。

 上海では、サンタ帽をかぶり、赤い衣装を身にまとった市民たちが、自転車に乗って街を埋め尽くしました。中には三輪バイクを真っ赤に塗り、「メリークリスマス」と書いて堂々とパレードする人たちも現れました。 彼らはシュプレヒコールを上げるわけでもなく、ただ笑顔で手を振り、街を練り歩きます。 これは単なるお祭り騒ぎではありません。ユーモアという武器を使った、権力の強面に対する、民衆の精一杯の「静かなる抵抗」なのです。

 この「サンタ・サイクリング」の映像は、瞬く間にネットで拡散されましたが、すぐに削除されました。それでも、その一瞬の輝きは、多くの中国人の心に「まだ、私たちは自由を諦めていない」というメッセージを焼き付けました。

 笑い話のように聞こえるかもしれませんが、ここには深刻な変化が潜んでいます。 当局によるクリスマス弾圧は、単なる治安維持の枠を超えています。それは、中国社会で常態化しつつある「排外的なポピュリズム」を映し出しています。

 経済が悪化し、社会不安が増す中で、政府は不満の矛先を逸らす必要があります。その格好のターゲットが「西洋文化」でした。「我々が苦しいのは、西洋の価値観が侵入してきたからだ」「クリスマスの代わりに、毛沢東の誕生日(12月26日)を祝え。」 政府はプロパガンダを通じて、こうした極端なナショナリズムを煽り続けています。楽しみさえも「国産」でなければならない。感情表現さえも「政治に従わなければならない。」 サンタを逮捕し、革命歌を流すという不可解な行動も、歪んだ愛国主義の論理の中では「国家の安全を守る英雄的行為」へとすり替えられてしまうのです。

 楽しみを追求する権利さえも、政治的な「踏み台」にされる社会。 2025年の寒空の下、それでも自転車を漕ぎ続けた上海の若者たち。その姿からは、たくましい生命力とともに、今の時代特有の、拭い去れない「虚無感」と「悲哀」を感じずにはいられません。

(翻訳・吉原木子)