最近、中国四川省では800元(約16,000円)の給料を支払ってもらえなかった一人の工場作業員が、怒りと絶望のあまり勤務先の工場に火を放つ事件が発生しました。炎は大きく燃え上がり、数十時間後に消し止められました。

 景気が悪くなると給料未払いが増える中国において、この象徴的な事件は世論を大きく揺さぶることとなりました。輸出が滞り、内需が振るわない中、給料未払いに起因する抗議活動は工場や建設現場、学校、病院など、様々な業界で起きています。

各地で給料未払いの抗議活動

 5月中旬以降、中国各地で給料未払いに対する抗議行動が次々と確認されました。河北省石家荘市では、中国交通建設グループのとある建設現場で働く労働者たちが横断幕を掲げて抗議しました。1人の労働者は、「旧正月以来、会社は何度も支払いを約束しては反故にし、給与日は何度も延期された。私たちは過酷な仕事をしているのに、給料がまったく払われない。仲間の中には家族が病気で、急ぎでお金が必要な者もいる」と訴えました。

 中国南部でも同様の動きが広がっています。広東省の陽信高速道路の一部区間を受注した中国鉄道第七局の建設現場では、5月19日に労働者たちが抗議を開始しました。彼らは簡易なプレハブ小屋に宿泊させられ、数か月もの間、1円も受け取っていないと訴えました。

 広西チワン族自治区の南寧市では、32人の建設労働者が5月16日から会社の前にテントを張って自炊し、給料が支払われるまで「長期戦」を続けると語っています。

 教育分野でも、給料未払いの問題が深刻化しています。山東省棗荘市では、月給約3000元(約6万3000円)で契約職員として働く教師たちが、半年もの間給料を支払われず、借金して生活をしていると暴露しました。山西省のある学校では、2021年以降に支給された年末賞与や放課後サービス手当の返還を教員に求めた結果、強い反発を招きました。

 5月17日には、浙江省東陽市で配達員たちが賃金未払いを理由にストライキを行いました。四川省遂寧市の商業施設では、警備員が仲介業者の逃亡によって賃金を受け取れず、横断幕を掲げて抗議しました。黒竜江省七台河市(しちだいがし)では、炭鉱からの離職者たちが市政府(市役所)前で三か月分の基本保障金と医療保険の支給を求めて抗議しました。

 医療や清掃の現場でも、状況は厳しさを増しています。江西省では、50代の女性清掃員がSNSで涙ながらに訴えました。
 「毎朝5時から十数時間も働いて、月収はたったの1400元(約2万8000円)。もう二度と人間として生まれたくない。」
 甘粛省の公立病院で勤務する看護師は、月収が1300元(約2万6000円)しかなく、業績連動の賞与も数ヶ月支給が遅れており、生活は困窮を極めていると語りました。

時限爆弾のカウントダウン

 5月20日、四川省宜賓市の紡績工場で大規模な火災が発生しました。放火したのは同工場に勤務する男性作業員の文容疑者(27歳)で、800元、日本円にして約16,000円の給料が未払いだったことが原因とのことです。火災は約37時間後に消し止められました。幸いにも死傷者は出ませんでしたが、大きな財産的損失をもたらしました。文容疑者は放火の現場で現行犯逮捕されました。

 事情を知るネットユーザーの投稿によれば、事件の直前、文容疑者はナイフを持って経理担当者と口論になり、激しい言い争いをしていました。その最中に文容疑者は担当者を刺し、その後カーテンに火を放ったといいます。炎が燃え上がる中、文容疑者は逃走せず、工場の入り口に座り込み、タバコを吸っていたとのことです。警察が到着すると、自ら手を差し出し、抵抗することなくそのまま逮捕されたそうです。

 目撃者によれば、火を放つ前に文容疑者は「自分が生きようが死のうがどうでもいい。お前たち(工場管理者)を道連れにしてやる」と叫んだといいます。一方で、火を放つ前に他の作業員に避難を呼びかけたため、人的被害が出なかったとされています。

 事件後、SNSでは文容疑者に対する同情の声が相次ぎ、「英雄ではないが、理解はできる」といったコメントが見られました。さらに、文容疑者が連行される際に、「俺が去った後、みんなきっと給料をもらえるようになる。会社側が善人になったのではなく、俺がここにいたからだ」と言い放ったという投稿には、多くのネットユーザーが賛同を示しました。

専門家「窮鼠猫を噛む」

 貴州大学の元教員である張氏は、地方政府の財政が逼迫する中で、非正規職員への給与支払いが困難になっている現状に対し、強い危機感を示しました。現在、中央政府は地方債の発行に対して厳格な制限を設けており、地方当局は財源が枯渇しているにもかかわらず、新たな資金を調達することができません。

 張氏は、「今まで給料未払いを訴えるのは主に農民工だったが、今では教師や看護師、清掃員なども被害を受けている。これは単なる労使間の対立ではなく、社会の構造的な部分で深刻な異変が生じている証拠だ」と指摘しました。

 張氏は、低賃金で働く一般労働者こそが、中国社会の「安定を支える土台」であると考えています。しかし、そのようなエッセンシャル・ワーカーは今、社会の最底辺に押しやられ、ひとたび声を上げれば「社会不安を招く存在」として扱われてしまうのが現実です。「彼らはただ、生きるために声を上げているだけだ」と、張氏は静かに訴えます。

 また、貴州省在住で労働問題を研究する学者の薛氏は、今回の放火事件に対して次のように指摘します。
 「確かに、放火という行為には法的な責任が伴う。しかし、私たちが本当に向き合うべきなのは、彼がなぜそこまで追い込まれたのか、という問いだ。」

 薛氏によれば、現在の行政や司法制度が、困窮した人々に訴えの場を提供できない状況が続けば、やがて彼らは「最悪の手段」によってしか、社会に声を届けられなくなってしまうといいます。

 四川在住のネットユーザー、王樹冬さんはラジオ・フリー・アジアの取材に対し、中国当局の冷淡な態度を批判しました。
 「労働者が給料未払いに抗議すれば『悪質な抗議』と断罪されるのに、給料を払わない会社側の責任を問う人はいない。労働者の権利が侵害された時、裁判所は何も助けてくれない。しかし、労働者が放火すれば、警察も裁判所も即座に動き出す。この落差こそ一番の悲劇だ。」

 現地メディアの報道によると、放火した文容疑者の家庭は非常に貧しく、母親は重い病気を患っていたとのことです。王樹冬さんは取材に対し、「未払いだった800元は、一家にとって生きる希望だったかもしれない。この国の制度が、最も基本的な生存権すら保障できないのであれば、我々は彼を責める資格があるだろうか」と語りました。

燃やされたのは工場だけなのか

 「800元兄貴」こと文容疑者による放火事件は、決して突発的な出来事ではありません。その背後には、未払い賃金に苦しむ無数の労働者たちの怒りと絶望が横たわっています。

 地方政府の財政難、機能不全に陥った法制度、そして形骸化した労使交渉——。長らく中国社会に存在していた構造的な問題が、今一気に噴き出しています。最も立場の弱い人々が、最も過激な手段に訴えなければならないという現実が、そこにはあります。

 今回、燃えたのは一つの工場です。しかし、燃え盛る炎の中で失われたのは、既存の社会制度への信頼であり、人々が最後の拠り所としてきた「正義」そのものだったのかもしれません。

(翻訳・唐木 衛)