(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

 かつて公園のベンチに1万円を置いてみたらどうなるかというテストを試みた人がいました。

 ある浮浪者が公園のベンチで居眠りをしていました。目が醒めたら、傍に1万円が置いてあるのに気付き、浮浪者はとても喜び、その1万円で毛布と枕を買いに行きました。

 その後、公園に戻ってみると、見知らぬ人が憂いに満ちた表情で公園の中にやって来ました。浮浪者はその人の事が気になり、何か心配事でもあるのかと尋ねると、その人の娘が病気になったのだが薬代が払えなくて困っていると答えました。それを聞くと、浮浪者はすぐに買ったばかりの毛布と枕を持って、その場を離れて行きました。

 しばらくして、浮浪者はまた公園に戻って来て、その人に向かって、「このお金は、私よりあなたの方が必要でしょう」と言って、手にしていた1万円を差し出しました。浮浪者は枕と毛布を返品しに行っていたのです。

 体面とはどういう意味でしょうか?

 外見の良さでしょうか? 博学な知識でしょうか? 或いは財力があって、栄華を極めることでしょうか? 
全て違います。本当の体面とは善良な心だといえます。

善良とは他人を尊重すること

 本当の善良とは尊重なのです。前漢時代の五経の一つ、『礼記』の中に、「見下されて与えられた食べ物など食べない」という物語があります。

 周の時代の斎国で大凶作に見舞われた年がありました。黔遨という人が、飢えている人々に食べ物を与える為に道端で食事の支度をしていました。歩行もままならない、ある飢えた人がよろよろとやって来ようとしました。そこで、黔遨は左手で食べ物を掲げ、右手でスープを持ち上げて、「おーい、こっちに来てさあ食べなさい」と言ったところ、飢えていたにもかかわらず、その人は拒否して食べようとしなかったために、しばらくして飢えて亡くなったという話です。

 本当の善良とは、上から目線で施すのではなく、相手を尊重して施すのです。善意の心を表すと同時に他人を尊重し、相手の立場に立って物事を考えることを忘れてはいけません。

 善良な人は見せかけたり、人に無理強いしたりもしないのです。善良は自己満足や自惚れの為にするものでもありません。本当の善良さとは、上から目線の同情ではなく対等な立場に立った思いやりだといえます。

善良とは、沈黙すべき時をわきまえていること

 「沈黙は金」沈黙は善良さの表れ。生きていく中で、多くの人が思いやりの看板をかかげて、他人のプライバシーをそれとなく探ろうとします。他人のプライバシーを垣間見ることで、己の好奇心を満足させ、話しのネタを充実させようとするのです。

 慰めるという名目で繰り返し人の古傷を暴こうとする人さえいます。すでに癒えた心の傷のかさぶたを無理やり剥がそうとするかのように。このような人は、自分のことを善良で親切な人間であるといつも思っていますが、決してそうではありません。本当の善良な人とは、何もいわずにそっとしておいてあげることのできる人ではないでしょうか。

 他人が苦しい立場にいる時に、痛いところを突くようなことをしてはいけません。他人が悲しみにくれている時、何度もしつこく聞いてもいけないのです。喋りまくったあげく、他人のプライバシーに関心をもってもいけません。

善良とは他人の為に良い選択をすること

 善良とは、他人の為に寛容でベストな選択をしてあげることです。
ある日、インドのマハトマ・ガンジーは、電車に乗ろうとした時、あまりに電車が混んでいた為、穿いていた靴の片方が脱げて、線路の近くに落ちてしまいました。電車は今にも動き出そうとしていたので、拾いに行けなくなってしまいました。この時、ガンジーは素早くもう片方の靴を脱いで、落っこちた靴の方に向かって投げたのです。

 乗客の一人がガンジーの行動を理解できなかったので、彼に尋ねると、「こうすれば、通りがかりの貧しい人が一足の靴を手に入れることができるからさ」と言いました。

 善良とは良心から出た行動であり、正しい判断をすることです。善良な人は他人の利益を考え、譲り合う事を心がけているので、利益を独り占めしようとはしません。

 善良とは広い心で世の中を受け入れ、太陽の光のような真っ直ぐで暖かい眼差しで人生を見るのです。視野が広く、恐れない心でこの世と向き合うのです。

 善良は高尚さの現れでもあります。たとえ、着ている服がどんなにみすぼらしくても、善良な心がありさえすれば、王様の杖と冠をもっているに等しく、たとえ、どんなに年老いていようとも、若返りの妙薬を手にしているに等しく、たとえ懐に一銭もなかったとしても、善良な心を持っていれば宝の山を所有しているに等しい価値があるといえるのです。

(翻訳・夜香木)