「牡丹」清・惲 寿平(うん じゅへい、1633-1690)(イメージ:パブリック・ドメイン)

 漢王朝の時代、鄭均という大臣がいた。鄭均の字は仲虞、東平任城(今の山東省)出身で、少年時代から黄老の学(注1)に興味を持っていた。

 鄭均の兄は役所に勤め、よくワイロを受け取っていました。鄭均は何度止めようとしてもダメだったため、使用人として出稼ぎに行きました。一年後、鄭均は稼いだお金を持って帰って兄に渡し、「これらのお金は使い切れば、また稼ぐことはできるのだ。しかしワイロなどをもらってしまうと、役人としての汚点がぬぐえないのだ」と言った。兄は感心し、ワイロをもらわなくなった。

 鄭均の話はやがて皇帝の耳にまで伝わった。西暦84年、漢の章帝は「鄭均は倹約で謙虚であり、善良を貫き通した。かつて国の重要部署に在職していたが、病気で退職した。また、元安邑の県長である毛義も倹約かつ謙虚であるため、住民に称賛されていた。『尚書』(注2)の中には『天子は徳ある人を褒めたたえるべき』と書かれてあるように、この二人にそれぞれ穀物18万リットルを与え、毎年8月に役人を派遣し、羊とお酒をもって訪問させ、その徳行を褒めたたえよう」という詔書を発布した。

 翌年、章帝は東巡の際に鄭均のところに立ち寄り、彼に終身俸給を受給する資格を与えた。当時、鄭均は「白衣尚書(注3)」と呼ばれていた。

出典:『後漢書』
注1:道家の学問の総称
注2:『尚書』または単に『書』とも呼ばれ、儒教の重要な経典である五経の一つでもある。
注3:白衣は庶民を意味する。白衣尚書とはすなわち官職を辞しても尚書の俸給を受給する大臣のことである。

(文・陸文/翻訳・北条)