16世紀の小説『西遊記』に登場する孫悟空は、勇敢な戦いぶりと不思議な神通力を持つことで知られています。その始まりは花果山(かかざん)の頂にあった大きな岩でした。岩は幾千年の歳月をかけて天地、太陽、そして月の精気を吸い、やがて一つの生命を宿します。ある日、岩が大きく割れ、中から一匹の石猿が誕生。これが後の孫悟空です。持ち前の知恵と勇気で、たちまち猿たちの王となります。
ある日、鶴に乗って空を悠然と飛ぶ仙人が現れます。それを目にした孫悟空は、後を追って深い山へ入ります。そこで修行を重ね、姿を自在に変化させる不思議な術を身につけます。そのころ、故郷の花果山では妖怪が暴れ回っていました。孫悟空は王国を守るため、戦いに挑みます――。
2026年の神韻芸術団の巡回公演では、舞踊劇『孫悟空の誕生』において、この不思議な石猿の誕生の物語を舞台上で再現し、世界中の観客を魅了しました。
では、孫悟空はどのように知恵を活かして猿たちの王になったのでしょうか?実は、その理由はとてもシンプルです。
『西遊記』によると、猿たちが山間の渓谷で遊び戯れている最中、突然ひらめき、水の源を探すことにしました。やがて一筋の滝を見つけ、その壮観さと険しい地形に驚嘆し、皆で「誰かがこの滝の中に入って源を探し、無事に戻ってきたら、その者を王にしよう」と誓いを立てました。その後、孫悟空は水簾洞(すいれんどう)の秘密を発見します。水簾洞は、一筋の滝の水のカーテン(水簾)が橋を隠しており、誰もが容易に入れないようになっていました。孫悟空は水簾を払いのけ、橋を渡り、猿たちを花果山の住みやすい洞天福地へと導きました。そのため、猿たちは孫悟空を王に推戴したのです。
誰が想像できたでしょうか。この一筋の水簾が衆生の目を惑わし、数え切れないほどの歳月が流れていたとは。橋はすでに架けられていたというのに、猿たちは入口の前でただ徘徊するばかりで、水簾をくぐることができなかったのです。ただ一人、霊性に満ちた石猿だけが、水簾洞の真実を見抜くことができました。
常々「人々は迷いの中にある」と耳にしますが、この「迷い」とは何でしょうか。おそらく「人生の意味が何であるかわからない」ことではないでしょうか。これはまるで、中国共産党に統治され、道徳観念や倫理的価値観が日々低下し続ける中国社会の中で、それでも幸福な生活を送りたいと願う、無数の人々の姿のようです。一日中、生きるために奔走して疲れ果て、物質的な利益で自分の存在価値を証明し、金銭や権力で生活の質を測ります。しかし、得れば得るほど失うものも多くなり、人の善良な本性からますます遠ざかっていきます。やがて一生を振り返ったとき、自分が本当は何を求めていたのかわからなくなり、ただ自分を麻痺させるように生き、嘘を見破って真実の世界や置かれた環境を直視しようとはしません。「今」を生きているつもりかもしれませんが、「未来」を無視してしまっているのです。
そのせいか、たとえ疫病が横行し、天災や人禍が頻発して何度も死の淵をくぐり抜けた人々であっても、天の警告に気づくことはありませんでした。相変わらず麻痺したように生き続け、災難が降りかかるのは他人で、自分だけは運が良いと思い込んでしまいます。しかし、天が人に与えた生存の法則は、食物連鎖における弱肉強食などではありません。善に向かって生き、宇宙のエネルギーと同じ波長で共鳴することなのです。道徳を高め、「真・善・忍」の天道と一つになることで初めて、災難を安らかに回避することができるのです。
実は、人間の心は、思考によって周波数を調整できるものです。悪い心を起こし、悪念が生まれたときに出す思考は、すべて負のエネルギーとつながっています。負のエネルギーが増えれば心が歪み、自分が何者かわからなくなり、それが習慣化すると悪念を自分自身だと錯覚するようになり、悪を行う道へ進んでいきます。一方、善心を呼び起こしたとき、思考は宇宙の正のエネルギーとつながります。正のエネルギーが増えれば、善が自然な習慣となり、悪から発せられるものを自動的に排除するようになります。人は理性的になり、智慧を備え、嘘に欺かれることなく善悪を明確に判断できるようになるのです。
だからこそ、良知こそが心の原動力なのです。内なる善を保ち続けることで初めて、自分の思考を本当にコントロールし、真の自分として生きることができるようになります。自分自身の本当の主人となり、肉体の欲望や外部情報から生まれる雑多な妄念に操られることなく、理性を失った行動をとらなくなるのです。
切に心に留めておいていただきたいのは、精神の向上は物質的な利益では決して測れないということです。花果山の猿たちは、遊びの合間に新しいものを見つけると、必ずその源を追い求めました。だからこそ彼らは自らの王を見つけることができたのです。万物の中で最も霊性を持つ人間もまた、魂の帰るべき場所を探さなければなりません。
(文・了緣/翻訳・慎吾)

