一、「薬のういろう(外郎)」の誕生

 和菓子として有名な「ういろう」の起源が、実は約650年前に中国から伝わった薬にあることをご存じでしょうか。

 もたらしたのは、日本へ亡命した陳延祐(ちんえんゆう)という人物でした。彼が携えていた家伝薬「霊宝丹(れっぽうたん)」こそが、日本最古の製薬の一つとされる「薬のういろう」の始まりです。以来、この薬は日本の社会や文化に大きな影響を与え続けてきました。

 本文では、お菓子の影に隠れた「薬のういろう」の歴史と、その変遷を振り返ります。

1)日本へ亡命した陳延祐

 陳延祐(1322~1395)は、元王朝末期に浙江省温州で「大医院礼部員外郎(だいいいんれいぶいんがいろう)」を務めた官吏でした。1368年、明の軍勢に追われた最後の皇帝・順帝が北方へ逃亡し、元王朝は滅亡しました。 異なる王朝に仕えることを不忠であると考えた陳延祐は、同年、日本の筑前博多へ亡命しました。

 日本に渡った陳延祐は、元の官職名から二文字を取り「陳外郎(ちんういろう)」と名乗りました。この「外郎」という言葉は、当時の唐音で「ういろう」と発音されました。この名乗りこそが、のちの薬やお菓子の「ういろう」の語源となったのです。

2)家伝薬「霊宝丹(れっぽうたん)」の伝来

 陳延祐の家系は代々、医薬を生業としてきた名家でした。彼は日本へ亡命する際、家伝薬「霊宝丹」の処方を持ち込んだのです。

 来日した陳延祐は、筑前博多の妙楽寺を頼って身を寄せ、仏教に帰依しながら医者としても活動をしていました。彼が中国から持参した陳家伝来の「霊宝丹」を多くの患者に処方したところ、腹痛、下痢、頭痛、咳、痰のつかえなどの症状に著しい効果を現しました。「苦いが、万能薬のように実によく効く」と、この「ういろうの薬」は博多の街でたちまち大評判になりました。

 陳外郎の優れた医術や高い教養、そして薬の評判は京都まで届き、室町幕府3代将軍・足利義満から「上洛して仕えてほしい」と何度も熱心な誘いを受けました。しかし、彼はこれに応じず、博多の名刹・崇福寺で出家し、生涯博多の地を離れることなくその人生を全うしました。

妙楽寺の「ういろう伝来の地」石碑(福岡市博多区)(STA3816, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

3)「透頂香(とうちんこう)」の名を賜る

 陳延祐の息子である二代目の大年宗奇(たいねんそうき)は、足利義満の招きに応じて京都へと移り住みました。宗奇は、医術や外交の面で朝廷や幕府に仕える傍ら、家伝薬である「霊宝丹」を献上しました。その優れた効能は朝廷や将軍家など多くの人々を驚かせ、時の後小松天皇から「透頂香」という名を賜りました。

 この「透頂香」は、日本で最古の歴史を持つ医薬品の一つと言われており、当時「公認の霊薬」としての絶対的な地位を確立しました。

 ただ、「透頂香」という名前が一般には少し読みにくかったため、人々は外郎家の薬をそのまま「ういろう」と呼ぶようにしました。結果、その通称の方が広く世に定着するようになったのです。

4)小田原での販売

 1504年(永正元年)、五代目の宇野藤右衛門定治(うのとうえもんさだはる)が北条早雲の招きに応じて神奈川県小田原市へと移住しました。

 これにより、「薬のういろう」は京都と小田原の両拠点で製造・販売されるようになりました。特に小田原はのちに東海道の重要な中継地となったため、「薬のういろう」は多くの旅人や一般庶民に買い求められ、その知名度がさらに高まっていきました。

 このように、初代が中国から「霊宝丹」をもたらし、二代目が天皇より「透頂香」の名を賜り、そして小田原へと拠点を移した五代目によって、のちに誰もが知る「薬のういろう」が本格的に売り出されたのです。

二、「薬のういろう」の功績

 「薬のういろう」の普及は、単に「薬の販売」というレベルにとどまらず、日本の文化や歴史そのものに深く根ざし、多大な功績を残したと高く評価されています。

1)「常備薬、携帯薬」としての定着

 それまでの漢方薬は、生薬をその都度お湯で煮出すタイプが主流でした。そのため、作るのに手間がかかり、持ち歩くのにも不便でした。一方、「ういろう」は、煎じ薬ではなく、生薬の粉末を蜂蜜などで練り固めた「丸薬」です。さらに、銀箔でコーティングが施されており、長く保存することも可能でした。これにより、武士が戦場へ持っていったり、旅人が急な病気に備えて持ち歩いたりする、「常備薬」や「携帯薬」のような文化が日本に広まったのです。

2)医学の民間への普及

 医師の診察を受けられるのは一部の特権階級だけだった時代に、万能薬の「ういろう」が「市販薬」として一般に売り出されたことは、極めて画期的でした。これによって一般の人々も、初めて本格的な医学の恩恵を受けられるようになったのです。

 さらに、交通の拠点だった小田原で売り出されたことで、薬はより多くの人々へと行き渡るようになりました。その結果、たくさんの庶民の健康を守り、日本全体の医療レベルを底上げする大きな力となりました。

3)歌舞伎『外郎売』の誕生

  外郎家には、歌舞伎の二代目・市川團十郎が病で声を失いかけた際、その薬を飲んで完治させたという歴史があります。團十郎はこれに深く感謝し、薬の素晴らしい効能を世の中に伝えるために、ある劇を作りました。それが、今でも歌舞伎の代表的な名作の一つとして受け継がれている『外郎売(ういろううり)』です。

享保3年(1718年)1月、「外郎売」を初演する二代目市川團十郎(パブリック・ドメイン)

 劇中で披露される早口言葉の数々は、現在でもアナウンサーや声優、俳優の卵たちが「滑舌の練習」で必ず音読する台本として、広く活用されています。

三、「ういろう」の現在

 現在も小田原の地では「株式会社ういろう」が家伝の薬を作り続けており、「薬のういろう」は今も小田原の「ういろう本店」にて買い求めることができます。

 外郎家は室町時代から650年以上の歴史を誇り、一子相伝の伝統を今も頑なに守り続けています。小田原の「ういろう」の現在の当主は、初代から数えて25代目にあたります。

 「薬のういろう」は、今も昔ながらの伝統的な製法を守っており、そのすべてが手作業による限定生産となっています。化学薬品のような副作用がなく、安心して服用できるその独自の処方と製法は、太平洋戦争中の企業・薬品統合といった厳しい時代にあっても、変わることなく維持されてきました。

  厳選された生薬(麝香、桂皮、人参など)を使い、手間と時間をかけて造られているため、大量生産ができません。そのため、原則として「お一人様2〜3個まで」といった購入制限が設けられています。

「ういろう」(ういらう)とそのパッケージと説明(Yoshi Canopus, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

 また、販売方法も昔から変わっていません。インターネットなどによる通信販売は一切行っておらず、小田原の「ういろう本店」での対面販売のみという伝統のスタイルを守り続けています。

 最後に、「菓子のういろう」について触れておきたいと思います。本稿では詳しく焦点を当てませんでしたが、外郎家が残したもう一つの大発明が、実はこのお菓子です。もともとは薬の口直しや、大切な客人をもてなすために、米粉と砂糖(当時は超高級な栄養剤)で作られた蒸し菓子でした。それが「薬のういろう」を買いに来た人々へのおもてなしとして定着し、やがてそのお菓子自体も「ういろう」と呼ばれるようになったのです。

 現代ではむしろ和菓子のイメージが強い「ういろう」ですが、それもすべて「薬のういろう」から派生したものだったのです。

おわりに

 一介の渡来薬であった「霊宝丹」が、650年もの時を経た現代においても、当時と変わらぬ完璧な姿で残されていることは、まさに奇跡だと言わざるを得ません。しかもそれは単なる「古い薬」にとどまらず、日本の政治や医療、芸能、そして食文化にいたるまで、多岐にわたる分野と絶妙に絡み合いながら、日本の地に深く根付いてきました。

 この秘伝の薬が持つ強い生命力、そして、その貴重な遺産を守り続けてきた外郎家の情熱と、古い伝統を尊び大切にする日本社会に対し、深く敬意を表さずにはいられません。

(文・一心)