8月12日午前11時6分、朱鎔基(しゅ・ようき)が北京で死去しました。享年98歳でした。朱鎔基はすでに20年近く公の場から遠ざかり、最後に公の場に姿を見せたのも2018年のことでした。しかし、その死去が呼び起こした反響は、引退した一人の高官の死としては異例の大きさとなっています。人々が朱鎔基について語るのは、ある意味で一人の人物を悼むためではなく、彼を通して、もう戻ることのできない一つの時代との距離を測っているのかもしれません。ちなみに、朱鎔基の祖先の出身地は安徽省鳳陽県(あんきしょう・ほうようけん)で、明の太祖・朱元璋(しゅ・げんしょう)の19代目の子孫にあたります。この出自についても、彼の死を機に再び注目されています。

 朱鎔基は1990年代から21世紀初頭にかけて中国経済の実権を握り、アジア通貨危機、国有企業改革、中国の世界貿易機関(WTO)加盟など、数々の歴史的な転換点を経験しました。率直な性格、断固とした汚職対策、そして経済効率を極限まで追求する姿勢で知られ、今なお繰り返し引用される言葉を数多く残しています。

 1998年3月、国務院総理に就任したばかりの朱鎔基は、記者会見で世界の注目を集める決意を表明しました。「前に地雷原があろうと、底知れぬ深淵があろうと、私はひたすら前へ進む。決してひるまず、全身全霊を尽くし、死ぬまで職責を果たす」

 蔓延する腐敗と複雑に絡み合った既得権益集団を前に、朱鎔基は汚職対策会議でさらに厳しい言葉を口にしました。「汚職との戦いでは、まず虎を倒し、その後に狼を倒す。虎には決して容赦しない。私はここに100個の棺おけを用意している。99個は汚職官僚のため、残る1個は自分のためだ」

 1998年、朱鎔基が江西省九江市(こうせいしょう・きゅうこうし)の洪水防止用の堤防を視察した際、朱鎔基はその場で「君たちは盤石の堤防だと言っていたではないか。まさか堤防の中身が豆腐かすだったとは」と厳しく叱責しました。この一言をきっかけに、「豆腐かすのような手抜き工事」という表現が、その後の中国世論で広く定着しました。退任後に自らの功罪がどう評価されるかについて、朱鎔基は2000年のインタビューで非常に素朴な言葉を残しています。「私は全国の人々に、ただ一言、『あの人は清廉な官僚だった。汚職官僚ではなかった』と言ってもらえれば、それで十分満足だ」。こうした言葉が、朱鎔基の「困難にも立ち向かい、責任を背負うことを恐れない」というイメージを形作りました。

 しかし、朱鎔基に対する評価は決して一面的なものではありません。彼が進めた国有企業改革によって、数千万人の労働者が一夜にして職を失いました。また、分税制改革によって地方政府の財政収入の多くが中央政府に移され、これが後に地方政府が不動産経済に強く依存するようになった重要な原因の一つとされています。

 さらに、カナダ在住の時事評論家・文昭(ぶん・しょう)は、あまり語られてこなかった別の視点を提示しています。朱鎔基は数千万人の国有企業労働者を失業させる以前に、実は少なくともそれと同じくらいの数の農村民間企業の労働者を、すでに失業させていたというのです。

 1980年代、中国の農村では数多くの民間企業が誕生しました。国有銀行から融資を受けることが難しかったため、さまざまな民間金融機関が生まれ、農村の民間企業は一時、急速に発展しました。この時期は、中国共産党統治下において、農民の所得が自発的に伸びた唯一の時期でもありました。しかし、民間企業と民間金融が自由に成長することは、中国共産党が農村に対する統制を失いつつあることを意味し、当局にとって容認できないものでした。そこで当時、国務院副総理だった朱鎔基は1993年、金融秩序の是正を命じました。全国数千社の信託会社が閉鎖され、証券取引所は上海と深センの2カ所だけが残され、民間金融機関は取り締まりの対象となり、その資産は政府管理下の金融システムへ移されました。それ以降、中国の農村から合法的な民間金融機関は姿を消し、数年のうちに、多くの農村民間企業が資金調達の道を失って倒産しました。

 また、外部では長年にわたり、朱鎔基と当時の中国共産党トップ、江沢民との間には、経済政策の決定権や政策路線をめぐって深刻な対立があったとみられてきました。鄧小平の死後、江沢民の権力は急速に拡大しましたが、朱鎔基が握っていた経済分野の実権だけは掌握できず、その後、江沢民は次第に朱鎔基を権力の中枢から遠ざけていったとされています。国有企業もそれに伴って巨大な独占組織へと膨張し、一部官僚が富を手にするための道具になったと指摘されています。両者は法輪功への対応をめぐっても意見が分かれていました。1999年4月、1万人を超える法輪功学習者が北京を訪れ、平和的な陳情を行った際、海外訪問から帰国したばかりの朱鎔基は代表者と面会し、事態はいったん収束しました。しかし同年7月、江沢民は全面的な弾圧に踏み切り、その弾圧は現在まで続いています。

 晩年の習近平(しゅう・きんぺい)との関係についても、外部では見方が分かれています。2017年、中国共産党第19回全国代表大会の開幕式で、習近平が報告を終えて会場に向かって一礼した際、動画では朱鎔基だけが拍手をしませんでした。この場面は当時、さまざまな憶測を呼び、一時は2人が「決裂した」との情報まで流れました。その後、朱鎔基は公の場で「習近平思想」への支持を表明したこともありますが、一方で政治評論家からは、晩年の朱鎔基が中央指導部に意見書を提出し、厳しい言葉で現実の問題を指摘したとの情報も出ています。公式の訃告では、朱鎔基が胡錦濤、習近平それぞれの党中央を「断固として支持した」と記されていますが、時事評論家の陳破空は、これはむしろ当局が朱鎔基の政治的遺産を利用し、自らに箔を付けようとしているように見えると指摘しています。

 注目すべきなのは、今回の訃告そのものの表現です。全文を通して、朱鎔基が反右派闘争で「右派」と認定された過去には一切触れず、文化大革命についても全く言及せず、「五七幹部学校に下放され労働した」と一言記すだけにとどめています。歴史がどのように書かれるかは、死そのもの以上に、その政権が今どのような姿勢にあるのかを物語ることがあります。ネット上の反応も真っ二つに分かれています。朱鎔基を「鉄面総理」と称える声がある一方、「臓器を取り替えて30年長生きした」と官僚を皮肉るネットユーザーもおり、一般の人々の平均寿命との対比が際立っています。また、朱鎔基の死去は北戴河会議(ほくたいがかいぎ)の時期と重なり、さらに中国共産党第21期中央委員会第5回全体会議も近づいています。外部では、当局が死去を速やかに公表する一方、ネット上のコメント欄への規制を強めたのは、ある意味でリスク管理の一環であり、この「改革総理」という象徴に過度な政治的意味が付与されることを避けようとしているためだとの見方も出ています。

 朱鎔基の死によって失われたのは、一人の命でした。しかし彼が残したのは、一つの時代が中国に突きつけた問いでした。改革がもはや単なるスローガンではなく、利益、権力、責任と真正面から向き合わなければならない時、いったい誰が、もう一度あの「地雷原」へ踏み込もうとするのでしょうか。

(翻訳・藍彧)