2026年4月、広東省東莞市の樟木頭収容所に関する動画が、中国のティックトックで数百万回再生され、一気にSNSの話題ランキング上位に浮上しました。

 動画には、この施設を実際に経験した人たちが登場し、かつてこの「悪名高い」施設で受けた非人道的な扱いを次々と証言しました。その後、関連する投稿や記事は大量に削除され、話題そのものも強制的に押さえ込まれましたが、「樟木頭収容所の集団埋葬地疑惑」という言葉は、すでに多くの中国ネットユーザーの記憶の中で再びよみがえっています。

 樟木頭収容所は、広東省東莞市樟木頭鎮にあり、かつて珠江デルタ地域で最大級の収容施設の一つとされていました。1980年代、改革開放の波が広がる中で、大量の農村人口が広東省へ出稼ぎに流入しました。都市で定住先もなく、身分証明書類も十分に持たないこうした人々は、この収容所の主な標的になっていきました。

 現存する資料によれば、1993年から2003年までの間に、樟木頭で収容された人数は延べ83万人に達しています。

 あるブロガーはこの数字をもとに、密室的な管理体制、ずさんな登録、監視設備の欠如、家族に知らせる権利すらない制度環境を前提にすれば、この施設が11年間稼働していた間に、暴行、飢え、病気による死亡や行方不明になった人は、控えめに見積もっても少なくとも数千人にのぼるはずだと推計しています。この数字は、これまで一度も公式統計に現れたことがありません。

 当時を知る人たちの証言は、聞くだけで背筋が寒くなります。ある男性は動画の中で、自分は姉が「身代金を払って出してもらった」幸運な一人だったと振り返っています。収容所での毎日はまるで刑務所のようで、周囲には同じく閉じ込められていた湖北出身の仲間が四、五十人もいたといいます。彼が出る前、その人たちは次々と彼にメモを押しつけ、外に出たら家族に連絡して早く金を工面してくれと必死に頼みました。そうしなければ「そのまま二度とそこから出られなくなるかもしれない」と。その言葉の本当の意味は誰も口にはしませんでしたが、誰もが分かっていたのです。

 別の体験者は、耳を疑うような場面を語っています。ある友人は連合防備隊に呼び止められた際、自分は問題ないと胸を張り、一時居住証を取り出して見せました。ところが連合防備隊員はまったくためらうことなく、その場でその一時居住証を破り捨て、平然とこう言ったそうです。「お前、いま一時居住証を持っているか。持っていないなら車に乗れ」

 このやり取りが示しているのは、あまりにも残酷な現実です。収容は最初から法に従って行われていたのではなく、ただ「何人捕まえるか」というノルマを達成するためのものだったのです。複数の体験者は、連合防備隊の任務はとにかくトラック一台分の人間を集めることであり、相手に証明書があるかどうかなど最初から問題にされていなかったと証言しています。

 別のブロガーも、自分は樟木頭で14日間拘束され、その間に激しい暴行を受けたと語っています。たとえ一時居住証を持っていても、その場で破り捨てられたといいます。

 収容所内部の混乱と闇は、大規模な失踪を生み出す温床になっていました。ブロガーたちがまとめた情報によると、施設内では偽名で登録され、記録はひどく不完全で、監視カメラも一切なく、家族は身内の行方を調べようがなかったといいます。誰かが死亡しても家族には通知されず、そのまま火葬されるか、荒れ地などに埋葬されたとされます。いわゆる「送還」も、送還の途中で外部との連絡が絶たれ、そのまま消息を絶つケースが少なくありませんでした。本人確認もなく、引き渡しの確認もないまま、大勢の人がそのまま永遠に姿を消したのです。遺族が受け取る返答は、「すでに送還済み」という一言だけでした。

 女性の出稼ぎ労働者が受けた被害は、さらに深刻だったとされています。ブロガーは当時広まっていた言い方として、「樟木頭では、若くてきれいな女性労働者ほど失踪しやすかった」と紹介しています。彼女たちの末路として語られているのは、人身売買、売春の強要、闇工場への転売、そして虐待による死亡などです。

 あるネットユーザーは、当時自分が指を折られた際の写真を公開し、別の人は家族が「犬用のおり」のような場所に閉じ込められていた写真を投稿しました。さらに、一部では生体臓器摘出が行われていた可能性を疑う声まで出ています。

 樟木頭収容所が終わりを迎えた大きなきっかけは、2003年に全国を震撼させた「孫志剛事件」でした。同年3月、湖北省出身の27歳の大学卒業生、孫志剛は、社会に出てまだ1年あまりという時期に、広州市の路上で一時滞在証を持っていないことを理由に「身分・住所・職業のない者」として拘束されました。

 収容からわずか3日後、収容所職員による激しい暴行で命を落としました。事件後、当局は当初、孫志剛は病死したのだと強弁しました。しかしこの事件は世論を大きく揺さぶり、社会各界から収容制度の廃止を求める声が噴き上がりました。強い批判を受けた結果、中国当局は『都市の浮浪・物乞い者の収容・送還に関する弁法』を廃止し、各地の収容送還施設も相次いで閉鎖、または別の形に改められていきました。

 孫志剛の死によって、制度としての悪がある程度は正されました。しかし、名前すら残らなかった多くの死者や行方不明者は、今に至るまで正式に認められたことがありません。中国当局はこれまで一度も異常死亡の統計を公表しておらず、いかなる形の調査も行っていません。関連資料も、外部に公開されたことは一度もありません。

 注目すべきなのは、今回この話題が一時的にでも検閲を突破できた理由について、一部の観察者が現在の中国国内の複雑な言論環境と関係している可能性を指摘していることです。しかし、背景に何があったにせよ、あの時代を生きた人たちは今、次々と声を上げ始めています。

 ある人は「樟木頭を離れて20年たつのに、いま突然こんな話が出てきて、思い出すだけでぞっとする」と語りました。

 ある人は、1994年に初恋の相手が広東省へ渡ったまま消息を絶ち、その母親は悲しみに耐えきれず、3年後に亡くなったと話しています。

 また別の人は、収容所の中で5歳の男の子が3歳の妹を連れているのを見たが、その子たちがその後外に出られたのか、今でも分からないと証言しています。

 この関連話題は一時、中国本土のSNSで急上昇ワードになりましたが、その後すぐに封じ込められました。百度で検索できた長文記事「83万人の悪夢、いまも覚えている人はいるのか」は、4月12日の時点ではまだ閲覧できたものの、4月13日には完全に削除されていました。

 今日頭条に掲載されていた関連記事も同様に姿を消しています。大量の動画が削除され、アカウントも停止され、当局による一斉清理はすでに全面的に進んでいます。

 それでも、一度語られた記憶は、そう簡単には消せません。「100万人の出稼ぎ労働者が広東へ向かい、どの村にも帰らなかった人がいる」。ネットのコメント欄に広がったこの言葉は、あの時代が残した、文字のない墓碑のようなものです。記録されず、統計にも載らず、正式に認められることもなかった命。その家族はいまなお、一つの説明を待ち続けています。

(翻訳・藍彧)