春は花々が咲き誇る季節であり、自然の移ろいを楽しむことは人々の普遍的な喜びです。しかし、同じ春の風景であっても、社会の管理体制や文化的な背景が異なれば、花々がたどる運命も大きく変わってしまうようです。
先日、北京の興隆郊野公園で驚くべき光景が目撃されました。園内ではハクモクレンが満開を迎えていましたが、「景観興隆」と記された制服を着た作業員が長い竹竿を使い、咲いている花を次々と叩き落としていたのです。無数の花びらが地面に散乱する中、居合わせた観光客が「まだ誰も見ていないのになぜ落とすのか」と制止しましたが、作業員は手を止めませんでした。この問題に対し、公園の管理側は「清掃員が枯れかけた花を処理する指示を誤解した」と説明し、該当する作業員を解雇したと発表しています。
しかし、この釈明をそのまま受け入れることは困難です。背景にあるのは、公園の過酷な評価制度です。上層部は地面に落ち葉や花びらが一枚でもあれば、現場の清掃員に厳しい罰金を科す仕組みを敷いています。給与を減らされるという死活問題を避けるため、現場の労働者は、満開の花を前もってすべて叩き落とすという極端な防衛策に出るしかありませんでした。枝に花がなければ花びらが散ることもなく、地面にゴミが落ちていなければ衛生検査も無事に通過できるという論理です。
このような管理至上主義の論理は、隣国である日本の春の風景とは対照的です。日本では桜をはじめ、秋の紅葉やイチョウなど、散りゆく葉や花びらも一つの美しい景観として親しまれています。自然の摂理に逆らわず、散る美しさを尊重する文化は、人々に心安らぐお花見の場を提供するだけでなく、毎年多額の経済効果をも生み出しています。自然と調和し、秩序を自発的に保つ社会が、結果として豊かな文化的、経済的恩恵を受けていることが分かります。
一方で、今回の騒動に見られる硬直化した官僚体制は、美的な価値を持つ落花すら、業績評価を脅かす「排除すべき対象」として扱っています。この一輪のハクモクレンの運命は、単なる公園の管理問題にとどまらず、極端な管理社会が抱える反知性主義や冷酷さを浮き彫りにしていると言えます。
こうした統治の下では、社会は上からの指令に絶対服従する機械のように扱われます。花の開花や落花は人間の意志では制御できない自然の法則ですが、管理者にとっては、そうした制御不能な要素自体が自らの権威への挑戦と見なされる傾向があります。常識に反する過剰な細密管理や、数値化しにくいものを無理に指標化する評価制度が現場に重圧を与えています。その結果、発言権を持たない底辺の労働者は制度に抗うことができず、体制の歪みが、抵抗する力を持たない花への暴力という形で表れてしまうのです。
目的のためには手段を選ばないというこの姿勢は、過去の歴史において食糧確保を名目にスズメを徹底的に駆除した運動や、近年の過度なゼロコロナ政策などにも共通する構造です。表面的な数値目標や政治的な正しさを満たすためであれば、社会の活力や自然の理を犠牲にすることも厭わない姿勢が垣間見えます。落ちる花びらの問題を解決するために、花そのものを無くしてしまうという選択は、自然のままに任せることを容認できない体制の性質を示しています。
かつて中国の民国時代、詩人の林徽因(りん・きいん)は北京の春の美しさを詩に詠み、それを愛や温もり、自由と希望の象徴として表現しました。長い歴史の中で、人々は散りゆく花を愛でながら、豊かな情緒や精神性を育んできたはずです。しかし現在の強権的な管理の下では、そうした詩情は失われつつあります。かつて文化人たちが描いた自然のたおやかさは、今や行政の冷たい評価指標へと変わり、市民もまた、常に監視され管理される対象となっています。
散る花にさえペナルティが科され、春に咲き誇るハクモクレンが強制的に排除されるような環境では、美しさや自由を享受する余裕は生まれません。長い竹竿によって無残に打ち落とされ、清掃車のゴミと化した花々は、この時代の社会的な悲哀を象徴しています。花が自然に散る権利すら認められず、万物が成長する法則さえも強硬な手段で管理しようとする体制の下で、そこに生きる人々が思想の自由や尊厳をどのように保っていくのか、私たちに重い問いを突きつけています。
(翻訳・吉原木子)
