国家級の南京博物院で、国宝が消えた可能性があります。守るはずの場所から、なぜ外へ流れるのでしょうか。
日中戦争期に故宮から南遷した文化財は2211箱、10万点以上とも言われていますが、そのコレクションをめぐり、元職員が実名で元院長による盗難と密輸を告発しました。さらに、1959年に寄贈されたはずの明代画家・仇英(きゅうえい)の名作「江南春」が、北京のオークションに現れ、評価額は約1億7600万円(8800万元)とも報じられています。
では、なぜ国宝が外に出るのでしょうか。鍵は「鑑定」「処分」「寄贈」という、一見まっとうな手続きにあります。もし本物を偽物と判定し、処分の名目で外に流せる仕組みがあるとしたらどうでしょう。これは遠い国の話ではありません。公の財産が、いつの間にか私物化される可能性の話なのです。
今日は南京博物院の騒動を手がかりに、国宝が消えるルートを一つずつ解き明かしていきます。
12月21日、南京博物院の典蔵部の元職員である郭礼典(かく・れいてん)氏が、実名の告発動画を公開しました。告発は、同院の元院長、徐湖平(じょ・こへい)氏が在任中、組織的かつ計画的に故宮南遷国宝を大量に盗み、密輸したというものです。さらに、江蘇省の関係指導者に賄賂を渡して「後ろ盾」を築き、調査が「うやむやのまま終わった」と主張しています。
郭氏の説明によると、日中戦争期に故宮の文化財は南方へ移され、膨大な数量が長年にわたり南京の朝天宮(ちょうてんきゅう)の収蔵庫に保管されてきました。ところが徐氏は、国家文物局の承認を得ないまま当時の封印を破り、保管箱を私的に開封して、多数の貴重な文化財を持ち出したとされています。さらに、鑑定の専門家に働きかけ、一部の真品を贋作と判定させることで、後に処理や移動が可能になるよう「合法的に処分できる形」に整えたとも述べています。
これらの文化財は江蘇省の文物商店を経由して、徐氏の息子が上海で運営する文化財オークション会社に転売され、最終的にフランス人商人や国内の文化財ブローカーの手に渡ったとされています。そこには官窯(かんよう)の陶磁器だけでなく、国宝級の唯一無二の書画作品が大量に含まれていたといいます。
郭氏はさらに、徐氏が一部の書画を、検察システムや反汚職部門の幹部に贈って法的リスクを回避しようとしたこと、故宮博物院が求めてきた文化財の点検と返還の要求を、長年にわたって妨げてきたことも指摘しています。さらに衝撃的なのは、2008年の時点で南京博物院内部ですでに集団告発が起きていたにもかかわらず、「関与する指導部関係者が多すぎるため、調査は最終的に棚上げされた」とされている点です。
この告発が事実だとすれば、国家級博物館の中枢にいた責任者が、制度の隙を利用して国宝を組織的に奪い取ったことになります。
ほぼ同じ時期、もう一つの出来事が南京博物院を再び注目の的にしました。
報道によると、明代の画家・仇英(きゅう・えい)の代表作「江南春」図巻が、最近、北京の美術オークション市場に出品され、評価額は約1.76億円にも上るとされています。ところがこの作品は、1959年に著名な収集家・龐莱臣(ほう・らいしん)の遺族が南京博物院に寄贈した、貴重な書画137点のうちの1点でした。
南京博物院は、この案件に関係する5点の絵画について、「1960年代に専門家チームが2度鑑定し、いずれも偽物と判断した」「1990年代に処分を行った」と説明しています。しかしこの説明はかえって疑念を広げました。「もし偽物と判断したのなら、なぜ寄贈者側に返さなかったのか。処分の手続きはどうなっていたのか。誰が責任者で、どこへ渡ったのか。なぜ数十年経っても検証できないのか」
さらに重要なのは、競売市場に出た「江南春」が本物だとすれば、当時の「偽物認定」や「処分」そのものが、最初から文化財を移動させる目的で仕組まれた可能性があるという点です。
龐莱臣の遺族は、より根深い疑問も投げかけています。「そもそも寄贈は本当に自発的な行為だったのか。それとも政治的な圧力の下で、収集という名目によって半ば強制的に手放さざるを得なかったのではないか」。当時の公的な書簡にある「どうしても必要だ」という趣旨の表現は、今でも家族に強い恐怖の記憶を残しているといいます。
南京博物院で起きた2つの事件は、ネット上で一気に共感を呼びました。コメント欄には「内部の敵は防ぎ難い」「博物館はとっくに空っぽにされている」「これは制度そのものの問題だ」といった声が多く見られます。
実際、こうした疑いは根拠のない憶測とは言い切れません。中国共産党が政権を樹立して以来、文化財の運命は常に政治権力と強く結びついてきました。
「公有制」や「国家所有」という名目の下で、民間の収蔵品は体系的に取り上げられました。さらに権力が集中する体制では、文化財の保管、鑑定、処分の過程に独立した監視が入りにくく、権力を利用した利益追求の余地が大きく残ります。そして最高権力の側が、伝統文化を好きなように作り替え、必要なら犠牲にし、奪ってもよい対象として扱うなら、下の官僚がそれに倣うのは、むしろ自然な流れになってしまいます。
歴史を振り返れば、文化大革命はこの論理が最も極端な形で現れた例でした。
最高権力の直接的な意向のもと、孔廟(こうびょう)は破壊され、孔子(こうし)の墓は掘り返されました。炎帝陵(えんていりょう)は焼かれ、倉頡(そうけつ)の墓は壊されました。仏像は打ち砕かれ、壁画は目の部分をえぐられ、敦煌(とんこう)の遺跡も損傷を受けました。名家の蔵書や書画は、何トンもの単位で焼かれ、紙の原料にするために砕かれたとも伝えられます。梁漱溟(りょう・そうめい)、林風眠(りん・ふうみん)、林散之(りん・さんし)、洪秋声(こう・しゅうせい)など、文化人が生涯かけて集めた所蔵品も、この政治運動の中で失われました。
これらは「末端が勝手に暴走した」出来事ではなく、最高権力が旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣という「4つの古いものを打ち破る」と位置づけて命令を下し、上から下へと進められた、組織的な文化の粛清でした。最高権力が「封建・資本主義・修正主義」といったラベルを恣意的に貼り、文化財の生死を決められる状況では、現場の実行者もそれに倣い、略奪や破壊を「政治的に正しい行為」と受け止めてしまう土壌が生まれます。
焼却から闇売買へ、手口は変わっても本質は変わりません。改革開放の時代に入ると、文化大革命のような大規模な焼却は公然とは許されなくなりました。しかし、力ずくで奪い取るやり方そのものが消えたわけではなく、より巧妙な形へと姿を変えていきます。
たとえば
「鑑定」という名目で、本物を偽物だと判定する
「処分」という名目で、文化財を公的な管理の枠外に流出させる
「寄贈」という名目で、対価のない実質的な没収を完了させる
「国家による管理」という名目で、実際には個人が支配できる状態を作る
南京博物院の一連の騒動は、まさにこうした文化大革命後の文化財略奪が、集中的に表れた例だと言えます。以前のようにスローガンを叫ぶことはなくなった代わりに、より見えにくく、より制度に紛れ込み、責任追及がいっそう難しくなりました。
文化大革命期の露骨な破壊から、現在の水面下の転売へ。最高権力による政治命令から、末端の官僚による権力を利用した利益追求へ。中国の文化財が辿ってきた道は、ばらばらの悲劇の積み重ねというより、一貫した権力の連鎖として見えてきます。南京博物院の嵐は、その鎖の一部が改めて表面化したにすぎません。
(翻訳・藍彧)
