達磨(だるま)にまつわる不思議な伝説
月岡芳年筆 - 『月百姿』の内達磨を描いた「破窓月」1887年(明治20年)刊(パブリック・ドメイン)

一、縁起物「だるま」

 倒れても起き上がる「だるま」は、あらゆる願いを叶える縁起物として、日本では古くから親しまれてきました。

 「だるま」のモデルとなったのは、6世紀初頭にインドから中国へ渡り、「禅」の教えを伝えたインド人僧侶の達磨(だるま)です。達磨はお釈迦様の第28代目の仏法継承者で、中国禅宗の開祖として知られ、その教えが日本にも伝わり、日本においても「禅宗の祖」として深く崇敬されています。

岡山県倉敷市玉島地区で作られている「玉島だるま」(Sat666, CC0, via Wikimedia Commons)

 「だるま」は、達磨の坐禅姿を模して作られた置物です。赤色で多く作られているのは、達磨が赤い法衣を身につけていたことから、手足がなく、顔を大きくモチーフしたのは、達磨が壁に向かって9年間も座禅をし続け、手足が腐ってしまったという伝説から由来しているとのことです。

 倒しても起き上がるという「不倒翁」の特性は、達磨の不撓不屈の精神と結びつき、「だるま」は、縁起物として、古くから「商売繁盛」や「必勝祈願」などの願掛けに用いられるようになりました。 

 祈願作法としては、買い求めた白目の「だるま」に、願いを込めて左目を書き入れ、成就すると右目を入れるというもので、これは江戸時代後期から現在に至るまで続く伝統的な習慣です。

二、達磨が中国で残した伝説

 達磨は、4世紀後半(不詳)南インドの王子として生まれ、修行を経て中国に渡り、中国禅宗の祖師となった高僧ですが、その生涯は多くの伝説的な逸話に彩られています。

1)梁の武帝との問答

 西暦520年頃に、達磨は海を渡って中国の広州に上陸しました。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていました。梁の武帝は仏教を厚く信仰し、天竺から来た高僧を喜んで迎えました。武帝は達磨に質問をしました。

 武帝:「朕は多くの寺や塔を建てた。どんな功徳があるだろうか」

 達磨:「別に功徳なんかありません」

 武帝:「仏法の最も大切な教えとはなんだ」

 達磨:「からりと晴れ上がった大空のように、大切な教えなどというものはどこにもありません」

 武帝:「それじゃ、インドからわざわざやって来たあなたは、いったい何者なのだ」

 達磨:「知らないですね」

 達磨は、「仏教の真理は、執着心を捨てた先にあるものだ」と武帝に伝えようとしたのかもしれません。武帝が禅の真意を理解できないと見た達磨は、機縁が合わないと判断し、その後、長江を渡って少林寺へ去っていきました。

2)一葦渡江(いちいとこう)

 梁武帝との対話後に、達磨は都(現在の南京)を離れ、長江の川辺で葦(あし)を投げ入れ、それを舟代わりにして北へ渡ったとされています。

葦1本を足がかりにして長江を渡った達磨(Metropolitan Museum of Art, Public domain, via Wikimedia Commons)

 葦1本を足がかりにして長江を渡ったという伝説は、達磨の深い悟りによる神通力、求道の精神を象徴する出来事です。この逸話を表現する「一葦渡江(いちいとこう)」という四字熟語は、現在でも使われています。

3)面壁九年(めんぺきくねん)

 長江を渡った達磨は、崇山少林寺(河南省)の裏山の洞窟に入り、壁に向かい9年間坐禅を続け、遂に悟りを開いたとされています。転じて「面壁九年」は、どんな困難な目的でも、粘り強く努力すれば必ず達成できるという意味になり、また、厳しい修行により、達磨の手足が腐り落ちてしまったという伝説から、手足のない「だるま」が作られるようになったと言われています。

4)隻履西帰(せきりせいき)

 達磨は少林寺で面壁九年の坐禅を組んだ後、西暦528年10月5日(諸説あり)に入寂したとされています。しかし、達磨が亡くなった3年後、ある役人が西域から帰る途中で、片方の靴を持って西に走る達磨に出会い、行き先を聞いたら、達磨は「天竺に帰るのだ」と答えたそうです。帰国した役人は達磨が亡くなったと聞かされ、驚いて棺を開けてみると、靴は片方だけ残っていたという逸話があります。それが「隻履西帰」という四字熟語の由来です。

白隠慧鶴《隻履達磨図》18世紀、江戸時代、龍嶽寺、長野(パブリック・ドメイン)

三、達磨が日本へ渡来した逸話

 達磨が奈良時代に日本へ渡来したという興味深い伝承もあります。

1)聖徳太子と達磨に出会った逸話

 『日本書紀』の記述によれば、推古天皇21年(613)、聖徳太子が片岡山で飢えと寒さで倒れている飢人(きじん)に出会い、食べ物と自身の衣を与えて助けました。飢人は亡くなりましたが、後日、墓を確認すると遺体は消えており、衣だけがきれいに畳まれて残されていました。太子はこの人物は「凡人ではない、聖人だ」と悟り、その衣を再び身につけたとされています。

 この飢人が、伝説では日本に渡来した達磨だということです。

2)聖徳太子との前世の約束

 聖徳太子には中国天台宗の高僧である南岳慧思(なんがくえし)の生まれ変わりだという言い伝えがあります。そして、慧思は達磨と中国で出会っており、達磨は慧思に東方の日本へ仏法を弘めるよう勧め、その時には自身も行って助けると約束したとされています。この伝説は、奈良時代に鑑真に随行して来日した唐僧・思託らによって広められたもので、鑑真もこの話を知っていたと伝えられています。

3)栄西禅師に転生した逸話

 達磨が生まれ変わって栄西になったという伝説も存在します。

 14世紀初頭までに成立した『正法輪蔵』という書物には、達磨は亡くなった562年後に、「葉上僧正」として生まれ変わり、鎌倉時代に京都の建仁寺を建立したという記述があるとされています。

 史実では、建仁寺の開山は栄西であるため、達磨が生まれ変わって栄西となったという伝説が広まりました。栄西は鎌倉時代初期に中国から臨済宗を伝え、日本禅宗の開祖となった僧侶です。 

 高僧たちの転生伝説は、歴史的な事実として確認できるものではありません。しかし、そこには非常に深い结びつきと巡り合わせがあって、それが目に見えない神秘的な力によって定められたと受け止めてもいいのではないでしょうか。

 達磨は波乱に満ちた人生を送り、壮絶とも言える逸話などを数多く残してくれました。達磨が開いた禅宗はやがて日本にも伝播し、日本に定着しました。そして、禅の精神は宗教という枠組みを超えて、書道、茶道、庭園、絵画、彫刻など日本文化に大きな影響を与え、日本人の心に独自の精神文化として根付きました。また、達磨の座禅する姿を模した「だるま」は、縁起物としても広く親しまれています。 

 年末年始恒例の「だるま祭り」は、今でも日本各地で開催されており、新年の幸せを願って「だるま」を買い求める人で賑わっています。

(文・一心)