中国で今、異変が起きています。これまで一方的に正しい物語を語ってきた官製メディアが、次々とネット世論に打ち負かされ、コメント欄で炎上する事態が止まりません。人民日報ですら、政治的な動員記事を出した直後に皮肉と反論で埋め尽くされ、削除さえ追いつかなくなっています。なぜ中国では、宣伝の言葉がここまで効かなくなったのか。その背景には、政権の信用が静かに崩れていく深刻な現実があります。
2025年12月12日、人民日報の一面に「鐘声」の署名で論説が掲載されました。内容は「世界各国にいる中国人は、平和と正義を守るための準備を整え、いつでも行動できるようにせよ」という強い政治的動員を促すもので、これまでの世論操作の常識からすれば、すぐに統一的な立場をつくり出し、集団意識を高めるための典型的な手法とされてきました。
しかし今回は、状況がわずかな時間で完全に反転しました。公開からわずか90分足らずで人民日報アプリのコメント欄が「崩壊」し、賛同どころか皮肉、揶揄、疑問、否定といった反応が一気に噴出しました。コメント欄そのものが、この動員記事に対する最も鋭く、最も直接的な逆風の舞台となったのです。
これは偶然ではなく、長年の不満が蓄積した結果の噴出といえます。
動員の言葉に集団で反撃 公式の語る力が崩れていく
同記事のコメント欄では、人気コメントの多くがあからさまな反対姿勢を示していました。
「高市早苗氏でさえ資産を公開している。あなたたち(中国高官)はできるのか。14億人を代表して決闘を申し込む」
「戦争を煽るやつがいたら、まずその人から排除する」
「銃を一丁くれ。すぐ空港に行って、知り合いは一人も逃がさない」
「蘭蘭、海外に逃げる準備はできてるの?パスポートとドルはもう持った?」
「酒を飲んで肉を食べる時は呼んでくれないのに、戦う時だけ命を張れと言うのか?ごめん、スマホの充電切れた」
こうしたコメントは単発ではなく、次々といいねとシェアを集め、長時間にわたり上位を占め続けました。象徴的なのは、これらがXやYouTubeのような匿名性の高い海外プラットフォームではなく、実名制で常に厳格なコメント統制が敷かれている人民日報公式アプリで堂々と書き込まれ、削除しきれないトゲとして残ったことです。
これは何を意味するのでしょうか。それは、公式発言がもはや自動的に正しいと受け取られず、説明力も道徳的優位も失いつつあるということです。むしろ、国民によって最も直接的な方法で再解釈され、分解され、さらに嘲笑されているのです。いわゆる権威ある発表は、すでに本来の権威を失いかけています。
官製メディアの炎上が頻発 事故ではなく日常現象に
一度のコメント欄崩壊であれば偶然と言い訳できますが、この一年で似たような事例が次々と起きていることから、官製メディアの炎上はすでに日常化していると言えます。
10月9日、人民日報はネット上のネガティブな感情を煽る風潮を止めるべきだとする記事を発表し、世論の主導権を取り戻そうとしました。しかし、コメント欄はすぐに反論と皮肉で埋め尽くされました。
「ネガティブな感情はどこから来るのか?」
「災害状況をありのままに伝えることがネガティブな感情なのか?」
「給料を求めることや帰郷することが悪意であると誰が定義したのか?」
「都市と農村の年金格差は事実だろう。誰かの策略なのか?」
その後もネットユーザーからの皮肉はさらにエスカレートしました。
「問題を解決できないなら、問題を指摘した人を消すんだね」
「民の口をふさぐことに、洪水を防ぐ以上の力を使っている」
「笑うことだけ許されて、泣くのは禁止」
「社会が公平なら、ネガティブな感情なんて自然となくなる」
同じような炎上は他の公式アカウントでも続出しました。国防省のTikTokアカウントが「全民皆兵」の動画を出すと、コメント欄は「指導者の子どもを先に戦場に送れ」で埋め尽くされ、共青団中央が「青春を強国強軍に捧げよう」と呼びかけると、「まず北京の戸籍を私の青春に組み込んでくれ」とツッコミが殺到しました。新華社の英語アカウントが「China is ready」と投稿すると、海外の華人が「Ready to run(逃げる準備完了)」と揶揄したのです。
これらの事例が示すのは一つの事実だけです。官製メディアの炎上はもはや単なる運営ミスではなく、政府が語る物語と社会現実が長年かけて乖離してきた結果として避けられなくなっているということです。
官製メディア崩壊の理由
中国共産党の動員が以前のように効かなくなった根本理由は単純です。政府の語る内容と、日々の生活で人々が目にする現実のギャップが、繰り返し実証されているからです。
現実では、多くの人がはっきり見ています。
共同富裕を掲げる権力層は、自分たちの資産を公開しません。
ゼロコロナを唱えた政策決定者の家族は、真っ先に海外へ移住していました。
戦う覚悟を持て、犠牲を恐れるなと繰り返す人たちの子どもは、欧米の大学に留学し、現地に定住しています。
勇ましく闘おうと叫ぶ者ほど、自分の子どもを前線へ送ったことがありません。
こうした対照が繰り返し表に出るたび、政府の言葉は道徳的説得力を失い、皮肉や嘲笑の対象になっていきます。人々はもう恐れず、求められる演技にも付き合わず、冷めたユーモアや反語、あるいは関わらない姿勢で応えているのです。
これはただの鬱憤(うっぷん)ばらしではありません。長期的に信頼を裏切られた結果、権力者の言葉そのものが信用できないと判断されるようになったのです。
圧縮された言論空間生まれる集団的な自己防衛
厳しい統制下にある中国のネット空間では、ネットユーザーが独自の政治的表現方法を発展させてきました。直接非難するのではなく、ユーモアや皮肉、比喩を使って本音を伝える方法です。
学界では、こうしたやり方を政治的ディスクレーマー(免責声明)戦略と呼びます。まず立場表明で安全を確保し、その後で批判を挟み込む技法です。しかし、このような皮肉や比喩を使った表現は、もともとはネットの一部で用いられる周縁的なサブカル的言い回しでした。それが官製メディアのコメント欄で主流になっていること自体、普通に意見を言える場が深刻に塞がれていることを示しています。
つまり、コメント欄にあふれる皮肉は秩序の乱れではなく、極度に制限された環境下で生まれた集団的な自己防衛メカニズムなのです。ネットユーザーの「このメディアは即ブロック」「まずお前ら自身を浄化したらどうだ」という声の裏には、公式の物語そのものの正統性を根本から否定する姿勢があります。
政権の公式メディアは頻繁に嘲笑の対象になっており、政治的動員が共感を生まず皮肉しか招かず、どれだけ厳しくコメントを統制しても、人々の本音はもう完全には隠しきれなくなっています。こうした状況そのものが、現実が突きつける答えになっています。
官製メディアが炎上を繰り返すのは、ネットユーザーが突然変わったからではありません。その政権の信用が、とうの昔に尽きてしまっているからです。
(翻訳・藍彧)
