一、二つの中国の存在

 中国の歴史は非常に長く、多くの王朝が興亡を繰り返してきました。それは、夏、商、周といった初期の王朝から始まり、秦、漢、三国、晋、南北朝、隋、唐、五代十国、宋、元、明、清を経て、中華民国、中華人民共和国へと続きます。

 歴史上における王朝の交替は、「易姓革命(えきせいかくめい)」という中国の伝統的な政治思想に基づいて正当化されてきました。それは「天命思想」に基づき、天が徳のある統治者を選び、天下を治めさせ、もし君主が徳を失ったり、暴政を行ったりした場合、天はその命を取り消し、新たな徳のある人物に天命を移譲するという理論です。

 「易姓革命」は王朝の姓が易(か)わり、天命が革(あらた)まるということで、現代に言う「 revolution」とは異なる意味です。

 ところが、王朝が交替する際、しばしば複数の政権が並立する時代がありました。三国時代の魏、蜀、呉はその典型的な一例で、各政権が自分こそ漢王朝の正当な後継者であると主張し、他の政権の正統性を否定し、対立しました。

 実は、このような分裂状態は現在でも起きています。それは二つの中国、即ち「中華人民共和国」(中国)と「中華民国」(台湾)が並存しているという現実です。 

中華人民共和国(紫)と中華民国(橙)が統治している地域(Nat at English Wikipedia, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)

 「中華人民共和国政府」と「中華民国政府」は、公式には互いを「中国」全土を代表する正統な政府として認めておらず、 それぞれ、自身が唯一の正統な政府であると主張しています。

 本文では、中国の伝統的な政治思想、即ち「易姓革命」や「天命思想」、「仁政」、「徳」などの概念を用いて、「二つの中国」、それぞれの政権の正統性について考えてみたいと思います。

二、「法統」と「道統」

 中国の伝統的な政治思想において、政権の正統性を判断するのに、極めて重要な二つの基準があります。それは「法統(ほうとう)」と「道統(とうとう)」という概念です。

 「法統」とは、政権の正当な継承と正統性を示すものです。それは「天命思想」に深く結び付いている概念です。政権の天下支配の正統性根拠は天命に由来し、天命を授かった為政者は、「徳」をもって国を治め、人民に「仁政」を施す義務と責任を負わなければならないという考えです。

 「道統」は、文化や思想的な正統性を指します。中国の伝統的な考えでは、為政者は単に権力を持つだけでなく、儒教的な「仁、義、礼、智、信」といった伝統的な道徳規範や文化理念に基づいて善政を施す義務と責任があるとされています。

万里の長城(明代)(Hao Wei from China, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons)

 「法統」も「道統」も、中国の伝統文化に由来する特定の概念で、王朝交替の歴史の中で形成されてきた核心的な考え方です。新しい王朝が成立した際には、しばしばその両方を兼ね備えていると自らの正統性を主張します。「法統」と「道統」の両輪が揃ってこそ、理想的な統治であり、真の正統な政権であると考えられてきました。

三、中華民国の正統性を見る

 1911年の辛亥革命は清王朝を倒し、1912年1月1日に孫文が南京で中華民国臨時政府の成立を宣言し、初代臨時大総統に就任しました。これは中国のみならず、アジアで初の共和制国家の誕生となりました。

 中華民国の建国の歴史的背景と経緯

1) 清朝末期、政治が腐敗し、欧米列強による半植民地化が進み、「清王朝はもはや天命を失った」という認識が当時の社会で広まりました。危機感を強く抱いた孫文は革命を志し、清王朝を打倒して人民が主権を持つ近代的な国家、中華民国を樹立することを目指しました。

 これは、失われた天命を回復する「易姓革命」という歴史的、文化的に正当性のある行動だと思われました。

2) 満州族による清朝の支配から、漢民族の国家である「中華」を再建する動きも、辛亥革命の重要な正当性の一つだと思われました。

3) 1912年2月12日、清王朝の最後の皇帝である愛新覚羅溥儀は退位し、自らの統治権を法的文書「清帝退位詔書」によって中華民国政府に平和的に移譲しました。この平和的な権力移譲は、伝統的な「禅譲」の概念に基づく正統性だけでなく、現代の法の支配の観点からも、中華民国に正統性をもたらしました。

孫文, 蒋介石

 また、孫文は「中国には道統がある。堯、舜、禹、湯、周の文王、武王、周公、孔子が絶えることなく受け継いできた。私の思想の基盤はまさにこの道統であり、私の革命はこの正統思想を継承し、大いに発揚することである」 と述べました。

 そして、中華民国の最高指導者となった蒋介石も、「我々が最も肝に銘じるべきは、中国固有の徳性、即ち古代より受け継がれてきた最も重要なものを決して忘れてはならないことだ。我々は国父(孫文)が教えてくださった固有の民族精神を継承し、国家を救い、民族を復興させなければならない」と語りました。

 孫文も蒋介石も、革命や近代化を進める一方で、中国の文化的アイデンティティや精神的伝統の重要性を強く認識し、それを国家建設の礎と位置づけていました。

四、中華人民共和国の歴史を振り返る

 1949年、蒋介石率いる国民政府は毛沢東率いる共産党との内戦で敗れ、中華民国は大陸を追われ、台湾への政府移転を余儀なくされました。 同年10月1日、毛沢東は天安門広場で中華人民共和国の建国を宣言し、共産党による一党支配の社会主義国家が誕生しました。

1) 政権を樹立するまでの道のり

 ・コミンテルンの支部とし結党

 中国共産党は、1921年7月に結党されましたが、当初からコミンテルンから強い影響を受けていました。コミンテルンはソ連に主導され、世界的な共産主義革命の達成を目的とする国際組織です。 初期の中国共産党の活動はコミンテルンの東アジア戦略の一部として進められていました。

 ・「国の中の国」を樹立

 1931年11月、中国共産党は中華民国統治下の江西省瑞金で、「中華ソビエト共和国臨時政府」の樹立を宣言し、毛沢東がその国家主席を務めました。「中華ソビエト共和国臨時政府」は反乱軍による非合法な分離主義政権と国民政府だとみなされました。

 ・日本軍侵攻に感謝

 1937年の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まると、国民党と共産党は「第2次国共合作」を結成し、日本に対抗するための協力を行いました。

 ところが、「日中戦争中、中国共産党は蒋介石や国民党軍の情報を日本軍に売り、巨額の情報提供料をせしめ、日本軍に停戦も申し入れていました」、「毛沢東は『抗日には兵力の10%しか注ぐな』と言って勢力を温存した」、「それは、日本との戦いは蒋介石の国民党に任せ、温存した力をその後の『中華民国潰し』に使い、中国を支配する共産党政権を作ろうという毛沢東の基本戦略だった」……、と中国研究の第一人者の遠藤誉氏は、著書『毛沢東 日本軍と共謀した男』の中で、その事実を生々しく記述しています。

 毛沢東は生前、訪中した日本の要人が「日本軍が中国を侵略して申し訳なかった」と謝ったことに対し、何度も「申し訳ないことはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらした。皇軍がいなければ、われわれは政権を奪えなかった」と言ったそうです。

 その結果、日本の敗戦後、勢力を拡大した共産党は内戦を起こし、消耗しきった中華民国政府軍を敗退させ、中華民国政府を台湾へ放逐し、中国大陸における共産政権の樹立に遂に成功しました。

2) 中華人民共和国の建国後

 ・絶え間ない政治運動

 中華人民共和国が成立した後、中共政府は絶え間なく政治運動を展開しました。1950年の「鎮圧反革命分子運動」、1951年の「三反五反運動」、1957年の「反右派運動」、1958年の「大躍進運動」、1966年の「文化大革命」、1989年の「六四天安門事件」、1999年の法輪功迫害、そして、新疆ウイグル自治区、チベット、香港などにおける深刻な人権侵害に至るまで、中国国民は常に弾圧の対象となってきました。中華人民共和国成立後、累計で約8000万以上の人々が犠牲になったと推定されています。

 ・伝統文化の破壊

 伝統文化に対する破壊は凄まじいものでした。特に文化大革命の期間中(1966〜1976)、数え切れないほどの歴史遺産や文化財が破壊され、多くの文化人や知識人が迫害され、粛清されました。

 そして、長年のマルクス主義無神論の徹底的な教育によって、中国社会においては、数千年にわたって継承されてきた伝統文化や信仰は公の場から姿を消し、仁、議、礼、智、信といった道徳観が失われ、社会の精神的景観も大きく変容してしまいました。

 さらには、何千年もの間使われて来た漢字までも改造されました。現在使われている簡体字は、文字が持つ歴史的、文化的内包を損なった、漢字の精髄を無くしたものとなっています。

 中国の伝統的な政治思想の「天命思想」や「徳政」などの見地から見れば、共産党政権はかなり異質なもので、その正統性が疑われます。「中華人民共和国」という国名は、その構成要素である「中華」も「人民」も「共和」も、どれも実際には体現していないのではないか、偽りものではないかとの批判の声も高まっています。

五、なぜ中共当局は台湾統一に執着するのか?

 中華民国と中華人民共和国、「二つの中国」という複雑な政治的構図は、現在に至るまで続いています。 

 国際社会は当初、中華民国を中国代表として承認していましたが、1970年代に入ると、中華人民共和国を正式な代表として認める方向へと次第に移行していきました。現在では多くの国が中華人民共和国を「中国」の唯一の正統政府として承認しており、中華民国(台湾)を国家承認している国の数は限られています。

 中華民国(台湾)がかなり厳しい状況に置かれているのは事実です。とは言え、中華民国の国号、憲法、国旗、そして、国家としての「法統」、文化的な「道統」は一度も途絶えることなく存続しているのも事実です。

 中華民国が存在する以上、理論上では、「二つの中国」それぞれの政権の正統性に疑問を問いかけることが可能です。なぜならば、中国の伝統的政治思想で判断する場合、「政権の正統性」を決めるのは「天帝」であり、承認国の数ではないからです。そのため、中華民国の存在そのものが、中華人民共和国の正統性に常に挑戦する脅威であり、中共政権の頭上に懸かっているダモクレスの剣なのです。      

中華民国の国旗

 実は、「推背図」(注1)などの中国歴代王朝の興亡や歴史上の重大事件を予言する予言書は、ことごとく「中華民国」がある時期に南京に還都すると予言しています。

 中国大陸に中華民国の旗が再び掲げられ、中華民国が故国に帰すことは、極めて非現実的で不可能に近いことだと思われるかもしれません。 しかし、歴史の大きな転換点は、往々にして個人の意志や一般的な予測を超えて起こるものです。かつて、あの巨大なソ連が一夜にして崩壊してしまう事を、誰が想像したでしょうか。

 中共政権は一見すると強力そうに見えますが、実際には内部で相当深刻なダメージを受けており、崩壊寸前なのです。なぜなら、天意に反する行いは、たとえ一時的に成功や繁栄を収めたとしても、その基盤が脆弱であるため、長続きしないからです。

 最も困難な時期が過ぎ去れば、より良い未来が必ず訪れることを信じています。試練や苦難に屈することなく耐え抜いた中国の「法統」、「道統」は、再び中国大地に帰還し、真の中国伝統文化が復興した、新たな未来へと進む中国を期待したいです。

注1):古代中国における最も有名な予言書の一つです。唐の時代に著されたと伝えられています。

参考文献:

遠藤誉『毛沢東 日本軍と共謀した男』新潮新書 2015年

大紀元新聞グループ編集部『共産党についての九つの評論』 2005年

(文・一心)