誤解はなぜ生まれるのか.
顔回( がん かい、紀元前五二一年― 紀元前四八一年)

 私たちはなぜ、他人を誤解してしまい、他人に誤解されてしまうのでしょうか。中国の書物『呂氏春秋』に記載されたこの話を読んでみると、その答えが出てくるかもしれません――。
 
 孔子が弟子たちと共に陳国と蔡国の間を旅する途中で、現地の勢力に囲まれて、身動きが取れなくなりました。さらに、食糧が尽き、一行は藜(あかざ)をお湯に入れて飲むばかりで、七日間も何も食べられませんでした。若い弟子たちは何とか耐えられてきましたが、年を取った孔子はこれ以上何も食べないとたいへんなことになるので、弟子の顔回はあちこちで物乞いをして、ようやくお米を手に入れ、これを炊き始めました。
 体が弱まり、昼寝をしていた孔子は音を聞いて起き出して、顔回がお米を炊いているのをちらりと見ましたが、そこには信じられない光景でした。なんと、誠実で信頼できるあの顔回は、釜の中からお米をつまみ出して食べていました。出来立てのお米は熱すぎるためか、顔回はとても暑そうでした。
 これを見た孔子は眉間にしわを寄せながら、何も見なかったことにして、寝床に戻りました。

 しばらくすると、顔回が炊きあがったご飯を運んできました。孔子は起き上がり、すぐにはご飯を食べず、「先ほど、亡くなった父君を夢であいました。ちょうどここにはご飯があるから、このご飯をまず父君に捧げて、その後みんなで食べましょうか」と言いました。つまり、「祖先を祭る」儀式を行いたいとのことです。
 しかし、春秋時代において、祖先を祭るには厳しい規範に従わなければなりません。その中に大事な一つのポイントとして、祖先への敬意を表すために、誰にも食べられていないきれいな食べ物を使用しなければなりません。そのため、顔回は孔子に「それは、やめてください」と言いました。
 「なぜでしょう」と孔子に聞かれて、顔回はようやく「自分は先ほどこのご飯をつまみ食いしたため、これを使って祖先を祭ることはできません」と答えました。
 孔子は「顔回は過ちを犯したけれど、勇気を持って認めているから、一度は許せるでしょう」と思うかたわら、顔回は続けて言いました。
 「しかし先生、私が食べたくてつまみ食いしたのではございません。先ほど、焚き木の煤(すす)が釜の中に入ってしまいました。汚くなったとはいえ食べ物を捨てるのは良くないので、すすがついたご飯をつまみ出して食べたのです」

 なんと、そういうことでしたか。孔子は驚きながら沈黙に入りました。本当のことを知って、弟子を疑ったことを反省しながら、孔子はこう語りました。
 「信ずるところは目なり、而して目なお信ずるべからず。恃むところは心なり、而して心なお恃むに足らず。弟子、これを記せ、人を知ることもとより易(やす)からざるなり」
 私たちは、目に見えるものを信じて生きているわけですが、目で見えたことをすべて信じ込むことはできません。自分の心をよりどころにして生きているわけですが、心の判断をすべて信じ込んでしまってはいけません。だからこそ、他人を誤解せず、理解することはまことに困難なことなのだと、弟子たちよ、よく覚えておいてください――。

 「百聞は一見に如かず」とはよく言われますが、数多くの事例から見ると、その耳で聞いたとしても、その目で見たとしても、ことの全容と真相を理解することが到底難しいのです。なぜなら、あなた一人の耳にも目にも届かないところに、把握できない隠された情報が潜んでいるからです。一番信頼を置いている弟子の顔回に対してさえ、孔子は誤解したことがあるのです。
 そのため、誤解したくなければ、誤解されたくなければ、私たちはできるだけの話し合いや率直な交流を常に心がけて、コミュニケーションを進めましょう。特に、重大な決断を下す際には、ひとりよがりにならないよう、十分な注意を払わなければなりません。

出典:『呂氏春秋・審分覽<任數>』

(翻訳編集・常夏)