北京に旅行に行く際、「天安門」は必ず訪れるべき場所の一つです。この壮大な建築物は威厳に満ち、雄大で圧倒的な気迫を放ち、その重厚な歴史を人々に語りかけると同時に、大国の威儀を顕示しています。
では、天安門はいつ建造されたのでしょうか?当初は何と呼ばれていたのでしょうか?この記事で天安門の歴史を探ってみましょう。
天安門は明王朝期の永楽年間に建設が始まり、当時は「承天門」と呼ばれていました。
洪武帝・朱元璋が明王朝を建国した後、国中の工匠と20万人以上の民夫を招集し、南京城を建設をしました。洪武二十五年(紀元1392年)、朱元璋は金水橋の外側に瑞門と承天門の建設に着手しました。
朱元璋の死後、北方の少数民族の脅威に対抗するため、永楽帝・朱棣(しゅ・てい)は北京への遷都を構想します。永楽十四年(紀元1416年)、彼は工匠を招集し北京の宮殿建設を開始しました。永楽十九年(紀元1421年)、朱棣は正式に北京へ遷都しました。こうした背景のもと、北京の天安門が建造されました。
天安門は元来「承天門」と呼ばれ、「天の命を受け、天の意思を奉じる」という意味を込め、永楽十八年(紀元1420年)に建造されました。設計者は当時の建築の大家・蒯祥(かい・しょう)でした。
蒯祥は江蘇省呉県香山漁帆村出身で、大工の家に生まれ、父親は当時有名な大工匠であり、南京城の建設にも携わっていました。蒯祥は父親の影響を受け、幼い頃から建築に深く魅了され、成人する頃にはすでに高い職人技を身につけていました。
伝えられるところによれば、蒯祥は16歳の時にすでに「巧匠」の誉れを得ていたといいます。宮殿の梁や柱に龍を描く際、彼は両手に筆を持ち、左右同時に筆を走らせ、瞬く間に二体の飛翔する龍を同時に描き上げていました。
永楽十五年(紀元1417年)、30歳になって間もなく、蒯祥は詔を受けて北京に赴き、「営繕所臣」に任命され、宮廷の建築を任されました。卓越した技量と非凡な才能で承天門の設計と施工を完成させました。完成後の承天門は朝廷内外から称賛され、蒯祥は当時の人々から「現世の魯班(古代中国の著名な工匠)」と讃えられ、永楽帝・朱棣も大いに喜びました。
承天門は当時の皇城の正門であり、黄色い瓦と飛び梁を持つ三層楼閣で、四方が通風の良い五つの木造牌坊(中国の伝統的建築様式の門)から成り立っていました。南京の承天門を完全に複製したもので、門の真上には「承天之門」の扁額(へんがく)が掲げられていました。
承天門は運命に翻弄され、幾多の変遷を経て、歴史の中で何度も破壊されては再建され、ついに現在の壮麗な天安門となりました。

明の英宗の治世、順天元年(紀元1457年)7月7日、承天門の楼閣は落雷による火災に見舞われ、木造の牌楼(はいろう)は炎の中で焼失し、8年経った成化元年(紀元1465年)に修復されました。明の崇禎(すうてい)十七年(紀元1644年)、李自成(り・じせい)率いる農民軍が北京城に攻め入り、承天門は再び壊滅的な被害を受け、残骸と瓦礫だけが残りました。
清の順治八年(紀元1651年)、皇帝は詔を発し承天門の再建を命じ、6年を経て完成しました。名称を「天安門」と改め、従来の「奉天承運(天命を奉じ、天運を継承する)、受命於天(天命による権力の正当性)」に「国泰民安(国家の平和と繁栄)、長治久安(長期的な安定)」の意味を加えました。扁額には満州語・モンゴル語・漢語の三種の文字で銘を刻みました。後にモンゴル語は削除され、辛亥革命後には扁額上の満州語も除去され、漢文で書かれた「天安門」のみが残されました。
修復後の天安門は全体で九開間(9つの間口がある)、奥行き五開間の構造で、二重の軒に六列の柱が並び、前後には回廊、歇山頂(けつさんちょう、入母屋造)を備えました。広場の両側にある宮壁の外側には、六部(史、戸、礼、兵、刑、工)、宗人府(皇帝の一族を管理・監督するための役所)、鴻臚寺(外国使節の接待や朝貢儀礼を司った官署)、欽天監(国立天文台に相当する国家機関)などを含む、当時の中央行政機関が集中配置されていました。
天安門の改修過程において、設計者は皇帝に「皇帝の象徴である龍は水を好みます。龍が存在する場所には必ず水が必要であり、龍が水を得てこそ神威を発揮できるのです」と進言しました。
そのため天安門の前には、長さ数百メートル、幅10メートル余りの護城の堀が設けられ、その上に七つの龍の浮き彫りの石橋が架けられました。これが現在の金水河と金水橋です。実際、金水河の建設には、より実用的な目的があり、それは後の火災に備え十分な水源を確保するためでした。
明清時代の天安門広場は現在ほど広大ではありませんでした。高い宮壁に囲まれた細長い閉鎖的な中庭で、面積はわずか11万平方メートルでした。
明清時代の天安門前には「金榜廊(掲示板のある廊下)」が存在し、科挙(官僚登用試験)の合格発表に使用されました。殿試(最終段階試験)で状元(主席合格)に選ばれた者は皆、ここで「金榜題名(掲示板に名前がのること)」を果たしました。
この金榜は皇帝自らが選び定めた「欽定皇榜(君主によって定められた公式の掲示)」であり、金榜廊内に掲示されました。その廊下の両側には龍棚が設けられ、前三甲(最上位三名)に選ばれた挙子(受験者)たちが龍棚で祝賀を受けることで、皇帝が賢者を重んじ人材を広く登用し、朝廷の人材選抜に偏りがないことを示しました。
しかし、これらの建築物は無情な火災によって一瞬にして灰と化し、その姿を見ることは二度とありませんでした。
(翻訳・夜香木)

