百万規模の軍隊と核兵器を保有し、世界でも屈指の監視システムを築いた政権が、ひとりの若い女性が描いた数頭のカートゥーンの豚に怯え切っているとしたら、人はまず怒りよりも先に戸惑いを覚えるはずです。なぜ、そのような事態が起きるのでしょうか。しかし、この問いを少し掘り下げていくと、より不穏な事実が浮かび上がってきます。本当に脆弱なのは、絵を描いた側ではないということです。さらに滑稽なのは、この出来事の中で、わざわざ自分から当てはめに行き、「あの豚は自分を描いたものだ」と信じ込んだ者がいたという点でした。
1990年代生まれの女性、張冬寧。彼女は「豚頭人身」と名付けた風刺漫画を数組描いただけで、二度にわたり「尋衅滋事罪」と呼ばれる、当局の解釈次第で言論や創作までも処罰対象にできる刑事罪名で投獄され、合計二年間、自由を奪われました。
彼女の境遇を語る前に、まずは彼女の絵そのものに目を向ける必要があります。張冬寧にとって、絵筆こそが唯一の言語だったからです。
ページをめくると、最初に目に飛び込んでくるのは、強烈な皮肉に満ちた「愛国の狂騒」です。狭い通りや歩道橋の上で、豚の顔をした群衆が「日本製品ボイコット」や過激なスローガンを掲げ、車を倒し、怒号を上げています。長年にわたり刷り込まれ、動員され続けてきた非理性的な憎悪が、ほとんどむき出しの形で描かれています。いわゆる「小粉紅」と呼ばれる集団行動は、彼女の筆の中で、思想や信念ではなく、知性と倫理が同時に崩壊した末の集団ヒステリーとして表現されています。そしてこの一枚によって、彼女は「精日」、すなわち「精神的日本人」というレッテルを貼られました。憎悪によってしか成立しない、虚構の民族的誇りを暴いたことが、許されなかったのです。
続く作品「EASY GIRLS」では、中国社会が長く直視してこなかった、性別と人種をめぐる歪んだ不安が描かれています。母国ではごく平凡な外国人男性が、中国に来た途端、「優秀で、魅力的で、特別な留学生」として持ち上げられる一方で、中国人女性は、世論や社会構造、現実の力関係によって、明らかに不均衡な立場へと追い込まれていきます。これは実在する現象ですが、公的な物語の中では語られてはならないものでした。なぜなら、それは「民族の尊厳」という虚構を根底から揺るがすからです。
当局が最も恐れたのは、張冬寧が権力の頂点そのものを解体してみせた点でした。ある作品では、ロシア大統領を思わせる人物が、豚顔の高官たちと包子(肉まん)を囲み、下では「民衆」が宗教的儀式のように、その湯気立つ包子に跪いています。これは単なる親露姿勢の揶揄ではありません。強権への憧れと依存を抱え込んだ一部世論の心理構造を、容赦なく描き出しています。さらに踏み込んだ別の作品では、清朝の官服を着た豚たちが、「帝」の字を背に刺繍した赤い衣のウィニー・ザ・プーの前に平伏しています。周知のウィニー・ザ・プーの姿を借りて、現代の権力が封建的帝制へと回帰していく様を重ね合わせたこの表現は、もはや暗喩ではなく、露骨な一撃でした。
張冬寧は1997年、安徽省淮南市に生まれました。幼少期から絵を愛し、後に日本へ渡り、創作と学びを続けてきた、ごく普通の若い表現者です。「豚頭人身」シリーズは300点を超え、動物の擬人化という荒唐無稽な形式を通して、権力の歪み、社会不安、人間性の崩れを描いてきました。この手法は決して特異なものではありません。動物農場から政治漫画に至るまで、動物は常に最も鋭く、そして本来は最も安全な批評の道具でした。少なくとも、正常な社会では。
2019年5月、日本から観光ビザで帰国して間もなく、彼女は「作品が国家を侮辱した」「思想に問題がある」として警察に連行されました。同年7月、正式に逮捕され、「尋衅滋事罪」で懲役一年の判決を受けます。しかし、それで終わりではありませんでした。2020年5月に出所したわずか半年後の同年11月、社会的事件について漫画で意見を示したことを理由に、再び逮捕されます。理由も、罪名も、判決も、ほぼそのまま繰り返されました。彼女が二度目に塀の外へ出たのは、2021年11月のことです。
二度の投獄。その理由は、言葉と絵だけでした。暴力を扇動したことも、組織を作ったことも、特定の人物を名指ししたこともありません。彼女は、見たくないが否定もできない鏡像を描いただけです。この事件を単なる表現の自由への弾圧と捉えるのは、むしろ不十分でしょう。それは、権力が自ら舞台に上がり、滑稽な役を演じてしまった喜劇でもありました。なぜなら、無意識のうちに「豚頭」というイメージを自分のものとして引き受けている者だけが、数枚の漫画にここまで過剰反応するからです。
この事件の核心であり、最大の皮肉は、極めて単純な問いに集約されます。もし自分を豚だと思っていないのなら、なぜ豚の絵を侮辱だと感じるのでしょうか。心理学では、これを「投射」と呼びます。自らの姿を直視できないとき、人は不安や羞恥、恐怖を外部に押し付けます。「国家侮辱」「中国人のイメージを貶めた」「精日分子」という一連の非難は、論理的な評価ではなく、重ねられた遮羞布にすぎません。傷ついたのは民族の尊厳ではなく、権力の正当性に対する深い不安でした。
中国の民間言説において、「豚頭」はもはや単なる動物ではなく、半ば公然と、半ば禁忌として共有される政治的隠喩です。ウィニー・ザ・プーや「包子」と並ぶ存在です。張冬寧が描いたのは豚であり、批判したのは権力構造と社会の歪みでした。しかし検閲装置は、それらを国家指導者や「中華民族」そのものと強引に結び付けました。
これは、きわめて稀で、しかも徹底した「国家規模の自虐」です。警察が扉を破り、検察官が法廷で真顔で起訴状を読み上げ、数枚の豚の絵を「社会秩序を危険にさらすもの」と断じた瞬間、世界に向けてこう宣言したことになります。これらの絵は、我々の権力構造そのものだと。張冬寧を鉄格子の中に閉じ込めながら、この政権は自ら進んで、その椅子に座ったのです。
彼女は例外ではありません。チャットで指導者を揶揄しただけで二年近く服役した者、カートゥーン画像を共有しただけで拘束された者、感染症の現場を記録しただけで四年の刑を受けた者、平和的に憲政を訴えただけで十年以上の実刑を科された者。この体系では、冗談は犯罪になり、比喩は攻撃とされ、創作そのものが脅威になります。
結局のところ、すべての発端は、紙の上に描かれた数頭の豚でした。しかし、檻に入れられたのは、決して彼らではありません。
(翻訳・吉原木子)
