近ごろ、中国のSNSである動画が急速に拡散し、多くのネットユーザーの間で激しい議論を呼びました。映像には、一人の母親が誤って自分の子どもを車内に閉じ込めたまま買い物に出かけ、戻ってきたときには子どもが酸欠状態で意識を失っている様子が映されています。さらに悪いことに、母親は車のドアを開けようとして初めて、鍵を車内に置き忘れていたことに気づきました。車は自動的にロックされており、彼女は窓ガラスを必死に叩きながら泣き叫び、「お願いします、誰か助けて!うちの子を助けてください!」と通行人に助けを求めました。

 初めてこの映像を見た人の中には、「母親はパニックに陥って冷静さを失い、どうすればいいのか分からなかったのだろう」と感じた人も多いでしょう。しかし、一部のネットユーザーのコメントは、より深い見方を示していました。彼らによれば、この母親の一見「愚か」に見える行動の裏には、冷静で計算された意図が潜んでいたのではないかというのです。まさに「徹底的に計算ずく」と言えるほどに。

 なぜそう言われるのでしょうか。動画の中で母親は一度も自分で窓を割ろうとせず、他人に助けを求め続けていました。その行動からは、ある種の打算が見て取れます。彼女は「子どもはまだ大丈夫」と賭けながら、「誰かがきっと助けてくれる」と踏んでいたのです。もし誰かが窓を割って子どもを救えば、母親はその相手に「ガラスの修理費」を請求できる。子どもは助かり、自分は損をしない。さらに恐ろしいのは、もし子どもが不幸にも亡くなってしまった場合には、「なぜ誰も助けなかったのか」と周囲を責めることさえできるという点です。そうした「両方の結果を見越したような」打算の深さに、戦慄を覚える人も少なくありません。

 このような推測は、決して根拠のない想像ではありません。実際に、同じような事件は過去にも何度も報じられています。

 2018年7月、中国四川省成都市青白江区で、母親が娘を車内に閉じ込めたまま立ち去る事件がありました。炎天下で車内の温度は急上昇し、女の子は顔が赤くなり意識を失いました。通行人が通報し、駆けつけた警察官が懐中電灯で窓を叩き割って救出しましたが、その際、警察官の手はガラス片で傷つきました。ところが、母親は感謝の言葉を述べることもなく、まず壊れた車の窓を確認し、「どうして勝手に割ったの?修理費は誰が払うの?」と警察官を問い詰めたのです。

 さらに2023年7月にも、同じ成都市で似たような事件が起きました。蒸し暑い夜、夫婦が外食している間に、息子が車内に閉じ込められてしまったのです。四川盆地の真夏は夜でも熱気がこもり、車内はまるで蒸し風呂のようでした。7月2日深夜、子どもが閉じ込められてからすでに1時間以上が経過していましたが、両親はドアを壊すのをためらい、車のそばで20分以上も話し合いを続けていました。

 それを見かねた通行人の林さんが声をかけました。「お子さんですよ。命が大事か、ガラスが大事か、よく考えてください。もう息苦しそうですよ。」しかし、両親は動こうとしません。林さんが「もう窓を割りましょう」と促しても、夫婦は車を壊すのを惜しみ、何とか「良い方法」がないかと探していました。しかし命に関わる危機に完璧な方法などありません。命と財産、どちらを取るかは明白です。

 その場にいた周囲の人々も、「車の窓なんてどうでもいい、子どもの命が最優先だ」と口々に言いました。焦った林さんはついにハンマーを手に取り、「壊したら僕が弁償します!明日クラウドファンディングで新しい窓を買ってあげます!」と叫びながらガラスを叩き割り、意識を失った子どもを救出しました。現場では拍手が起こりましたが、子どもの体は汗でびっしょり濡れていました。それでも母親は「ただ眠かっただけです」と言い張り、感謝の言葉もなく子どもを抱いて立ち去ったのです。

 こうした出来事が人々の心を痛めるのは、「人命よりも損得を優先する」という冷酷な現実を突きつけるからです。自分の子どもの命でさえ計算の対象とされ、他人の善意すら搾取や責任転嫁の道具として使われる――そんな社会で、誰が安心して人を助けられるでしょうか。

 実際、近年の中国社会では「善意が報われない」出来事が相次ぎ、道徳の崩壊を懸念する声が高まっています。その象徴的な事件が、2006年に南京で起きた「彭宇(ポンユー)事件」です。若者の彭宇さんが転倒した高齢女性を助け起こしたところ、逆に加害者として訴えられ、裁判で賠償を命じられました。この事件は「倒れた老人を助けるべきか」という全国的な論争を引き起こし、多くの人々が善行をためらうようになりました。その後も「善人が訴えられる」事例は後を絶たず、「老人が倒れても誰も助けない」という言葉まで広まりました。

 こうした風潮は、社会全体の信頼の基盤を蝕んでいます。善意を示した人が「損をする側」になり、善行が利用される恐れがある社会では、人々の心は次第に冷え、温かさが失われていきます。いま本当に恐ろしいのは、悪意が増えることではなく、人々の善意が声を失っていくことです。

(翻訳・吉原木子)