11月12日、南朝梁の大同2年(536年)に創建され、1500年以上の歴史を持つ永慶寺(えいけいじ)で火災が発生し、象徴的な建物である文昌閣(ぶんしょうかく)が全焼しました。最終的には鉄筋コンクリートの骨組みだけが残る状態となりました。永慶寺は杭州の霊隠寺(れいいんじ)や鎮江(ちんこう)の金山寺(きんざんじ)と並ぶ名刹として知られています。

 同日11時24分、江蘇省蘇州市張家港市(ちょうかこうし)の鳳凰山(ほうおうざん)観光地にある永慶寺で火災が発生し、火勢は瞬く間に文昌閣へと広がりました。寺院内の羅漢堂(らかんどう)や大雄宝殿(だいおうほうでん)、周辺の林地などに被害はありませんでした。

 ネット上に投稿された動画では、複数階建ての楼閣が上層から下層まで激しく燃え上がり、木造部分がすべて焼失した様子が確認できます。炎と煙に包まれた中で、骨組みだけがむき出しになっており、景区から数キロ離れた住宅地からも、山上に立ち上る煙がはっきりと見えたということです。

 同日午後、張家港市鳳凰鎮政府は通報を発表し、12日11時24分に鳳凰山の建築で火災が発生したが、すでに鎮火しており、人的被害はなく、周辺の林地にも影響はなかったと説明しました。出火原因については、現在調査が進められています。

 公開資料によりますと、永慶寺は東呉の赤烏年間に創建され、南朝梁の武帝が大同2年(536年)に侍御司(じぎょし)陸孝本(りく・こうほん)の寄進により拡建したとされています。現存する寺院建築には大雄宝殿や羅漢堂があり、境内や周辺には千年古檜(こひのき)、肉身菩薩(にくしんぼさつ)、自然石井(しぜんせきせい)の「三絶」と呼ばれる遺跡が残されています。大雄宝殿には釈迦牟尼仏の三尊像が安置され、明・清の両朝では合わせて6度の修繕が行われ、最盛期には寺域が86ムー(約5.7ヘクタール)に達していたとされます。

 永慶寺は文化的価値も高く、元末には施耐庵(し・たいあん)が文昌閣に隠棲して『水滸伝』を執筆したと伝えられ、洗硯池(せんけんち)や磨剣石(まけんせき)などの遺跡が今も残っています。また、唐の天宝12年には鑑真(がんじん)和尚が日本へ渡航する前に参拝した記録もあります。

 しかし、中共建政後には僧侶や信徒への弾圧が行われ、1958年に永慶寺は徹底的に破壊され、寺院は廃墟となり、僧侶たちは散り散りになりました。その後、1993年に再建計画が始まり、1999年に一般公開、2007年には張家港市の文物保護単位に指定されました。

 今回の火災は、大きな反響を呼んでいます。

 ゲーム系ブロガーで、微博の有名アカウント「張佳ZHJ」はこう述べています。
 「蘇州張家港の鳳凰山で、1500年以上の歴史を持つ仿古建築・永慶寺文昌閣が火災。明清で6回修繕され(明2回、清4回)、1993年に再建された建物とはいえ、焼失は本当に残念です。仿古建築には高価な木材や木工、彫刻、塗装の技術がふんだんに使われており、その損失は小さくありません。ここは施耐庵が『水滸伝』を執筆した場所でもあります。」

 写真系ブロガー「文卿卿我」も次のように嘆いています。
 「永慶寺文昌閣がコンクリートの骨組みだけになってしまった姿を見て、本当に胸が痛みました。1993年の再建とはいえ、ここは施耐庵が隠棲して『水滸伝』を執筆した場所であり、地域の文化的記憶を宿した場所でした。鳳凰山に行くたび必ず立ち寄る場所だっただけに、こうして失われてしまったことが本当に残念です。」

 さらに彼女は、消防対策の問題点を指摘しています。
 「もっと理解しがたいのは、火災のわずか11日前に寺で消防演習が行われていたのに、その告知がすぐに削除されたことです。これはまさに形式的な対応と言わざるを得ません。仿古建築の多くは木造で非常に燃えやすく、寺には線香などの直火もあり、配線の老朽化の可能性もあります。もともと火災リスクが高い環境で、“形だけ”の対策では到底防ぎきれません。」

 そして文化財保護についても、次のように訴えています。
 「文化遺産の保護は見た目だけの作業ではありません。仿古建築の建設には巨額の費用がかかり、何より建物の中に込められた文化の気韻や工芸技術こそが価値です。一度焼失してしまえば復元は極めて困難で、伝統技法がすでに失われている場合もあります。今回の火災が、すべての文物保護機関への警鐘となり、消防点検や安全演習を“ノルマ”として済ませるのではなく、本当に実効性のある対策が行われることを望みます。文昌閣を再建する際には、防火基準をしっかり引き上げ、千年にわたる文化の命脈が再び失われないよう願っています。」

(翻訳・吉原木子)