放生(ほうじょう)は、仏教の伝統的な善行の一つであり、本来は慈悲の心から生き物を解き放ち、徳を積むことを目的としています。仏教の教えによれば、放生は単に命を救う行為にとどまらず、慈悲と無執着の心を育てる修行でもあります。

 しかし、現代の中国では、この「放生」という行為がしばしば歪められ、「功徳」を盲目的に追い求める形式的な儀式へと変質しています。多くの参加者は利己的な願望や心理的な慰めのために科学や現実を無視し、結果として「放生」が「放死」となり、生態系の破壊を引き起こしています。

 ここ数年、このような乱れた放生活動は後を絶ちません。水源保護区に野良猫を放したり、「ミネラルウォーターを放生する」といった奇妙な行為まで見られます。これらは放生の本来の意味を大きく逸脱し、環境や生態系に深刻な影響を及ぼしています。

 最近では、広東省清遠市(せいえんし)清城区の迎咀(げいそ)水庫周辺で発生した大規模な放生事件が、その象徴的な例となりました。11月1日、数十人のグループが数千匹もの猫をトラックでこの貯水池に運び、檻を開けて次々と放ちました。この水庫は地元の飲料水源を守る一級保護区であり、本来そのような行為は厳しく禁止されています。それにもかかわらず、参加者たちは法を無視して猫を放ち、多くの猫が輸送中の密閉や酸欠で既に命を落としていました。現場に着いた猫たちは恐怖で四方に逃げ散り、木に登って降りられず衰弱する個体、水に落ちて溺死する個体もあったといいます。目撃者の一人は「虐殺を思わせる光景だった」と語りました。水辺には無数の猫の死骸が散乱し、水質汚染の懸念が広がっています。

 環境当局の調査では、水質は一時的に基準値を下回ることはなかったものの、清掃と消毒作業がすでに開始され、警察も捜査を進めています。現場には多くの動物愛護団体の関係者が駆けつけ、放された猫の安否を確認しました。SNS上では「放たれた猫の多くは野良ではなく、明らかに飼い猫だった」との投稿もあり、盗まれたペットが放生に利用された可能性が指摘されています。

 実は、こうした事件は初めてではありません。2023年8月にも同じ水庫で大量の病死猫が発見され、同様の放生活動が原因とみられています。多くの猫が飢えや寒さで衰弱し、骨と皮ばかりの姿で見つかりました。このような行為は慈悲とは程遠く、猫ウイルスの拡散や公衆衛生上の危険をも引き起こしています。

 さらに驚くべきことに、放生の対象が「命なきもの」にまで及んでいます。2025年4月、重慶市巴南区(はなんく)李家沱(りかた)埠頭では、十数人が大量のミネラルウォーターを長江に注ぎ、空のペットボトルをその場に投げ捨てました。彼らは「漁が禁止されている期間なので、魚の代わりにミネラルウォーターを放生する。水中の微生物を救う象徴だ」と主張しましたが、これは全く意味をなさない行為です。単なる資源の浪費であり、環境汚染そのものです。

 2023年9月には、広東省汕尾市(さんい)湖東港で約60箱ものミネラルウォーターが海に投棄され、2024年には山東省青島市(ちんとうし)嶗山(ろうざん)水庫でも同様の行為が確認されました。参加者は「水中に多くの微生物がいるから、この水を放てば功徳が積める」と語っていたといいます。

 ミネラルウォーターを放生するという常識外れの行為だけでなく、2025年1月には深圳市(しんせんし)で牛乳や米、ビスケットを「放生」する人々の動画が拡散されました。彼らは袋から牛乳を水面に注ぎ、ビスケットを投げ入れていました。

 放生の乱れはこれだけにとどまりません。2024年9月には住宅街で大量のゴキブリを放つ女性が目撃され、住民が撮影しながら制止を呼びかけましたが、女性は「なぜ撮るの」と言い放ち、行為をやめようとしませんでした。

 2022年12月、江蘇省常州市金壇区では、女性・徐某が約12トンもの外来種ナマズを湖に放ち、大量死を引き起こしました。漁業当局は10日間かけて死骸を回収し、彼女は最終的に訴追されました。2015年には長白山自然保護区で放たれたキツネが野生に適応できず、道路沿いをさまよった末に車にはねられ死亡するという悲劇も起きています。

 こうした「放生」乱象の背景には、宗教の誤解、経済的利益、そして歪んだ心理があります。一見、慈悲深く見えるこれらの人々こそ、実は最も自己中心的で功利的なのです。彼らは放生を「功徳投資」、つまり手っ取り早く徳を積むための手段と見なし、自分の福報を得る近道だと信じています。

 しかし、本来の慈悲とは、知恵と無執着に基づくものです。形式的な行為によって満たされるものではありません。宗教の名を借りて欲望を正当化し、環境を破壊し、他者に迷惑をかける——それは善行ではなく、むしろ「善を装った自己満足」にすぎません。

 さらにこの風潮は新たな悪を生み出しています。放生の需要が「地下産業」を生み出し、業者が野生動物を捕獲して放生者に売りつける。放たれた動物は環境に適応できず死ぬか、再び捕獲されて再販される——この「捕獲―販売―放生―再捕獲」の悪循環が続いています。

 本来の放生の目的は、慈悲の心から生き物の苦しみを救うことでした。しかし今の放生は、功徳の取引であり、欲望のはけ口になっています。人々は「救う」と言いながら破壊し、「慈悲」を語りながら死をまき散らしているのです。この「善意の仮面をかぶった冷酷さ」は、無知よりも恐ろしいものです。

 放生に執着する人々は、おそらく一生「善とは何か」を理解できないでしょう。本当の善は、寺院の香炉の前にも、水庫の岸辺にもありません。日々の暮らしの中にこそあります。――一匹の野良猫に優しくすること、一つの木や一筋の川を大切にすること、すれ違う人に思いやりを持つこと。

 本当の慈悲を持つ人は、放生によって自らの善良さを証明する必要はありません。日々の生活の中で欲を抑え、命を尊び、自然を愛し、人を思いやる。その生き方こそが、真の「放生」です。動物を自然に戻すことではなく、人の心を貪欲と執着から解き放つこと――それこそが現代における本当の慈悲なのです。

(翻訳・吉原木子)