中国でチクングニア熱の感染が拡大する中、広東省では大規模な「蚊の駆除」作戦が展開されました。しかし、この本来は防疫を目的とした取り組みが、次第に科学と常識を逸脱していきます。開平市のある住宅地では、「3日以内に飼い犬をすべて処分せよ。さもなければ自己責任」とする衝撃的な公告が掲示されました。公告には「防疫要請を厳格に実施し、蚊の繁殖や細菌感染、近隣トラブルを防ぐため、全ての飼い犬を完全に処理すること」と記されています。 これは2025年に10月15日付で開平市海怡園住宅小区の業主委員会が発令したものとされています。
同じ頃、江門市民の胡さんにも信じがたい出来事が起きました。昼寝から目覚めると、自宅の観葉植物が消えていたのです。監視カメラを確認すると、「蚊の駆除」を名目にした作業員が無断で自宅に侵入し、鉢植えを運び出していました。胡さんが行政のホットラインに問い合わせると、「防蚊措置には法的根拠がある」との回答が返ってきました。また、その根拠となる法令は「現時点では確認できない」とされました。
ネット上では、「犬が蚊を繁殖させる?科学的な常識をどこに捨てたのか」「木まで切り倒すつもりか」「これって住居侵入では?」といった批判が噴出しました。「防蚊」ではなく「空き巣まがいの執行だ」と揶揄する声も上がり、市民の不安と怒りが一気に広がっています。
この「蚊の駆除騒動」は、表向きには公共衛生のための緊急対応のように見えますが、その背後には、中国社会が長年抱えてきた「特定の目的の為に、全ての人や物を一斉に動員する統治スタイル」の影にある行政の効率と政治的成果を優先し、個人の権利や尊厳を軽視する統治のあり方が浮かび上がっています。
実は、こうした発想は新しいものではありません。新型コロナの防疫期間中に発生した江西省上饒市の「コーギー犬撲殺事件」こそ、その典型的な例です。2021年11月、信州区の住民が隔離措置を受ける際、「ペットは処分しない」との約束を得て自宅を離れました。ところが同日午後、防疫スタッフ2人が施錠されたドアをこじ開け、怯えたコーギー犬を鉄棒で殴り殺したのです。この映像は防犯カメラに記録され、瞬く間に全国で拡散され、世論の怒りを呼びました。当初、地元政府は「情報を確認していない」との逃げの姿勢を取りましたが、深夜になってようやく「コミュニケーション不足による不適切な対応」と認め、「感染を防ぐための処理」と説明しました。
しかし、科学的根拠も法的権限もないまま、「感染の可能性がある」という憶測だけで一つの命を奪う行為は、社会に深い恐怖と不信を残しました。上海の封鎖期間中にも、感染者の飼い犬が当局によって路上で撲殺される事件が発生しました。行政命令が絶対化され、法治と人間性が欠落するとき、生命の尊厳は簡単に踏みにじられてしまうのです。
この「全ての人や物を動員する統治スタイル」の根源は、さらに過去にさかのぼることができます。1958年、中国では「四害駆除運動」の一環として、全国規模の「スズメ撲滅運動」が行われました。当時、スズメは「穀物を食べる害鳥」とされ、全国の都市や農村で「人民戦争」のような駆除活動が展開されました。太鼓や鍋を叩き、花火を鳴らし、スズメを空中に追い立てて休ませず、過労死させるという狂気の光景が全国各地で繰り広げられたのです。推計によると、この年だけで全国で約20億羽のスズメが殺されました。
しかし、その結果、スズメが捕食していた害虫が爆発的に増加し、翌年には農作物の収穫量が激減しました。動物学者の鄭作新氏らが「スズメは穀物よりも害虫を多く食べる」と中央に上申しました。毛沢東は最終的にこの政策を撤回、「スズメを打つな」と指示しましたが、すでに生態系の破壊は取り返しのつかない状態になっていました。
「スズメの撲滅」から「蚊の撲滅」へ――時代も対象も異なりますが、そこに流れる発想は驚くほど似ています。緊急性と効率を重要視し、科学的検証や法的手続きを省略するようなやり方は、時に迅速さを生む一方で、理性と人間性を犠牲にします。
コロナ禍を経て、中国社会はようやく気づき始めています。公共の統治の核心は「動員」ではなく「制度」にあり、「消毒」ではなく「科学」にあり、「抑圧」ではなく「尊重」にあるということを。科学と人間性を欠いた非常措置は、いつでも新たな災厄を呼び込む危険があります。
歴史の警鐘は、再び鳴り響いています。スズメからペットへ、スズメという自然からペットという個人へ――「安全」の名のもとに行われる過剰な執行は、人間性を試す鏡です。上饒市コーギー犬撲殺事件」の事件のあと、あるネットユーザーはこう問いかけました。「一匹の犬の命さえ尊重されないのに、『人間を守る』ことを語れるのか?」
(翻訳・吉原木子)
