一代の奸臣 実は稀有な人材だった
君主に取り入り、害をなす者を指す言葉「奸臣(かんしん)」。これは唐の宰相・李林甫(り・りんぽ)に対する中国の史書の評価です。例えば、『資治通鑑』は李林甫を「十九年、宰相の座に在りて、天下の乱を養う」と総括しています。
一方、中国最古の行政法典『唐六典(とうりくてん)』は、唐朝の政治制度を理解するには不可欠な書物ですが、この法典の編纂は李林甫が主導しました。現代の学者が改めて『唐六典』を解読し、李林甫には実務的な行政能力と制度革新の才知を持ち合わせていたが明らかになりました。彼が宰相就任初期に展開した一連の制度改革は、唐王朝期の最盛期「開元の盛世」の安定した基盤を築きました。彼を数多く批判する『旧唐書』でさえ、李林甫の才能を認めざるを得えませんでした。
では、19年間も宰相を務めた有能な臣下が、なぜ後世の歴史書で「奸臣」と評されることになったのでしょうか?
能臣が悪評を残した理由
嫉妬心と権力への執着から、李林甫と一緒に仕えた多くの同僚は、彼の企みで惨めな末路をたどりました。
『資治通鑑』によれば、朝廷の百官(ひゃっかん)の中で名声や功績が自分を超える者や、玄宗皇帝の信頼を受け、権勢が自分を脅かす者は、李林甫が必ず陰謀で排除したそうです。特に文才で官職を得た士人は、とりわけ李林甫に嫉妬され、恨まれる対象となりました。表向きでは親切に接し、陰では陰謀を企てて陥れ、世間に「口蜜腹剣(表面は親切だが内心は悪意)」「妒賢嫉能(優れた者を嫉妬する)」と非難されました。
ある日、李林甫の息子・李岫は父に「父上は長く宰相を務められていますが、敵を多く作り、怨み恨みが天下に満ちています。万が一のことがあったら、官職がなくなるばかりか、平民になることすらできなくなるのではないでしょうか?」と言いました。
これを聞いた李林甫は「ここまでやってしまうと、もはやどうすることもできない」と言いました。
嫉妬心に焼き尽くされた国運
一度嫉妬心が燃え上がれば、悲惨な結末は避けられません。李林甫の死後、「謀反者だ」と政敵にでっち上げられ、玄宗皇帝は彼の官位を剥奪し、平民の葬儀で葬るよう命じました。その子孫で官職のある者は全員罷免や流刑に処され、身に着けていた衣服と食糧以外の財産は全て没収されました。
李林甫の死後3年も経たぬうちに、唐王朝を動揺させた「安史の乱」が勃発し、唐の盛世は終焉を迎えました。
この内乱の主因が李林甫であったかについて、学界で意見が分かれます。しかし、陰謀と嫉妬が飛び交う朝廷は、まさに社会動乱の温床でした。この点では、高位にありながら嫉妬に満ちた李林甫の責任は免れないのではないでしょうか。
(文・宋伂文/翻訳・李明月)

