2025年7月下旬、北京はここ10年で最も深刻な洪水に見舞われました。中国共産党の公式発表によると、30人が死亡したとされていますが、各地から村の孤立やインフラの機能停止が報告されており、実際の被害はそれを大きく上回る可能性があります。
今回の災害の中心にあるのは、密雲ダムです。この北京市の重要な水源は、7月27日から放水を開始し、29日までに累計で1億2000万立方メートル以上の水を下流に放出しました。最大放水量は毎秒1120立方メートルに達し、北京市が暴雨(豪雨)赤色警報を発令していた時期と重なったことで、密雲区・懐柔区・平谷区などの地域が深刻な内水氾濫に見舞われ、交通の寸断、電力や通信の遮断、村全体の浸水といった被害が発生しました。
このとき、放水を行っていたのは密雲ダムだけではありません。北京市水務局によると、白河堡、古城、玉渡山、海子、西峪など10以上のダムが同時に放水を実施しており、三家店の堰も開放されていたことが判明しています。これにより、北京市北部全域で流域連動の洪水リスクが一気に高まりました。
特に注目すべきは、密雲ダムの水位がすでに危険域に達していたという事実です。2024年10月時点で同ダムの水位は155.31メートルに達し、ダム建設以来の最高水位を更新。そして2025年7月29日にはさらに上昇し、155.52メートルを記録しました。これは、洪水位150メートル、汛限水位(洪水期の制限水位)152メートルを大きく上回り、ダムの天端160メートルに迫る数値です。つまり、今回の洪水は「満杯状態」での運用中に起きた災害だったのです。
このような超高水位の背景には、自然降雨だけでなく、人為的な過剰貯水の問題があります。密雲ダムは元々灌漑と防洪を主目的に設計されたダムで、有効貯水容量は40億立方メートルにも満たない構造です。しかし、2015年以降、南水北調(南部の水を北部に送る国家プロジェクト)の一環として、丹江口ダムからの「南水」がポンプを通じて密雲ダムに逆流注入されるようになりました。この逆流注水により、密雲ダムの水位は毎年記録を更新し続けています。2018年には22億立方メートル、2021年には35.79億立方メートル、そして2024年には36.17億立方メートルに達しました。
当局はこの水位上昇を「供水安全の確保」という成果として宣伝してきましたが、実際には深刻なリスクが隠されていました。特に主汛期(7月〜8月)に入る前に、密雲ダムの水位が152メートル以下に下がっていなかったことは明らかで、災害が起きた際に緊急放水以外の選択肢がない状態だったのです。下流への影響を無視し、ダムの安全だけを最優先した運用体制こそが、今回の洪水を招いた直接原因といえるでしょう。
密雲ダムの放水は今回が初めてではありません。過去には1969年と1976年にも大規模な放水が行われています。1969年には中ソ国境紛争(珍宝島事件)により、ソ連の核攻撃を警戒した当局が首都水源地を守るために密雲・官庁の両ダムを放水。1976年には唐山大地震で白河主ダムが大規模に崩落、当時の国家主席・華国鋒が現地に急行し、山を爆破して石材を調達し、ダムを補強するという緊急措置が取られました。このときも放水が約2週間続けられたといいます。事後の専門家の試算によると、もし白河主ダムが決壊していれば、北京の天安門広場は2メートル以上の水に沈んだ可能性があるとのことです。
密雲ダムは1958年の「大躍進」運動の中で突貫工事で建設され、わずか2年で完成しました。清華大学の張光斗教授が設計を担当し、河北省・天津市・北京市から20万人以上の労働者が動員されたとされています。そのスピードは「奇跡」と賞賛されましたが、完成直後から補強と修繕が続き、結果的に投資総額は当初の計画を大きく上回りました。
現在の密雲ダムは、防洪・給水・調整・観光など多機能を担う存在として位置付けられています。表面的には「湖光山色」の景勝地として都市景観にも取り込まれ、周囲では不動産開発も進んでいます。しかしその美しさの裏で、ダムが本来担うべき防災機能が軽視されてきたことは否定できません。
また、一般市民の間でも水資源やダム運用に関する基本的理解が乏しいという問題もあります。一部の報道では、「出水量が入水量を超えるのはおかしい」といった指摘がありましたが、これは水位が安全基準を超えている場合には、放水を増やして水位を下げるしかないという基本原則が理解されていないことを示しています。水位が限界に近づいたダムにおいて、放水はむしろ不可欠な緊急措置です。
さらに懸念されるのは、密雲ダムが唯一の高リスクダムではないという点です。北京周辺には同様の多目的ダムが多数存在しており、それらも高水位運用や連携不足というリスクを抱えています。2021年の河南省鄭州洪水、2023年の広東・湖南の水害、そして今回の北京密雲ダムの事例は、いずれも「制度的な人災」と言える共通の構造的問題を抱えています。
今後、中国が直面する極端気象や都市集中化が進む中で、水利インフラの「安全と利便」をいかに両立させるかが大きな課題となるでしょう。密雲ダムのケースは、そのリスクを再認識させる象徴的な出来事であり、都市防災の観点からも、水資源管理の根本的な見直しが求められています。
