この夏、中国の河南省、四川省、重慶市の貯水池で水位が低下し、かつて水没していた古代仏像群が次々と露出しました。これらの仏像は、いずれも中国共産党(以下、中共)政権下で貯水池建設のために水没させられたものです。
専門家は、「仏像を水に沈めるという行為は、中共によるもう一つの形の『文化大革命』である」と指摘し、中共と他の正常な国家との文化財保護に対する姿勢の違いが浮き彫りになっていると述べています。
東魏時代の千仏石窟が再び姿を現す
今年5月末、河南省鶴壁(かくへき)市の奪豊(だっぽう)貯水池で水位が下がり、前嘴(ぜんし)石窟が姿を現しました。洞窟内には千体を超える仏像が彫られており、1500年ほど前の東魏時代に開削されたとされます。これは北魏から隋・唐へと移行する仏教芸術の変遷を実証する貴重な資料です。
この石窟には、高さ約0.7メートルの主仏像が八弁の蓮台に安座し、周囲の壁面には1平方メートルあたり20体以上という密度で小さな仏像が並びます。完全な形で残る小仏像の顔立ちは「厳かで穏やか」であり、衣のひだは滑らかで、彫刻技術の高さが際立っています。造形は力強く、かつ繊細で、東魏時代の仏教彫刻の最高峰とも言えます。
前嘴石窟の価値は、芸術的側面にとどまりません。南北朝時代の宗教史・工芸史・社会文化の研究においても極めて重要な手がかりとなります。長らく崖の上にひっそりと存在していたこの石窟は、20世紀中頃、貯水池建設により水中に沈められました。
文化財管理局の職員によれば、前嘴石窟自体は数年前にすでに発見されており、水中に沈んでいるため、水位が下がったときだけ姿を見せるといいます。仏像は長年水中にあったために腐食が進み、多くの像の頭部や手が消失しています。
ドイツ在住の著名な水利専門家・王維洛(おう・いらく)氏は、大紀元の取材に対し次のように述べました。「中国では、水利施設の建設によって歴史的遺産が水没することは一般的であり、中共政権はそれを損失と考えていない。過去のやり方はダムが完成した後、ただちに水門を閉じて貯水を開始し、あらゆるものを水に沈めていた。文化財や古跡もそのまま水中に放置され、どれだけ沈めたかという統計すら取られていない。例えば新安江(しんあんこう)貯水池の建設では、まるごと一つの県城が水没した。そこには多くの古建築があったが、今ではすべて水の下である。今のやり方はもっとひどい。近年では、ダムの建設前にすべての建築物を爆破し、貯水池を清掃する措置が取られており、水質の悪化を防ぐとされている。そのため、新たに建設される貯水池では、もはや完全な形の仏像や仏像群がほぼ残っていない」
江西省の貯水池でも仏像と古墓が出現 明代王族の陵墓か
江西省では1958年に洪門(こうもん)貯水池が建設され、当時の硝石(しょうせき)鎮が水没し、多くの歴史遺跡や文化財が貯水池の底に沈みました。硝石鎮の歴史は漢の高祖・劉邦(りゅうほう)まで遡ることができ、歴史文献にもその記録が残されています。
1980年代、江西省では深刻な干ばつが発生し、洪門貯水池の水位が史上最低まで下がり、水中に沈んでいた巨大な仏像数体が露出しました。
2016年11月、洪門貯水池の改修工事に伴い放水が行われ、かつて水没した硝石鎮の遺構が水面に現れ、古い建物の輪郭がぼんやりと浮かび上がりました。中には「聖旨(せいし)」と刻まれた牌坊(はいぼう)も確認され、発掘作業では「節孝(せっこう)」と彫られた石碑や多数の石彫も発見されました。
その後の調査により、これらの仏像は岩壁に直接彫られた「摩崖仏(まがいぶつ)」で、明代の作風であることが確認されました。古代においては藩王の陵墓の周囲に仏像を彫る習慣があり、専門家は、洪門湖の水底には明代の藩王墓が埋まっており、仏像はその墓と密接に関連していると推測しています。
明の時代には、洪門や岳口(がくこう)は益王(えきおう)一族の墓域とされていました。そのため、洪門貯水池の底には、益王一族と関係する大型墓群がさらに眠っている可能性があります。硝石鎮とそれに伴う多くの歴史遺構は、貯水池建設によって永遠に水の底に消えたのです。
仏像群が相次いで露出 浮かび上がる文化保護の差
中共と正常な国家の文化財保護に対する姿勢の違いは、各地の事例からも明白です。
2025年7月7日付の中国中央テレビ(CCTV)の報道によると、重慶市大足(だいそく)区にある玉灘(ぎょくたん)貯水池の崖壁上で、宋代の摩崖仏群が水位低下により初めて確認されました。崖壁の高さは3メートル、幅6メートルにわたり、左から右にかけて6つの龕(がん)に分かれ、計27体の仏像が彫られています。
大足石刻研究院の研究員・鄧啓兵(とう・けいへい)氏によると、今年春以降、大足区の降水量が少なく、玉灘貯水池の水位が何度も低下したことで、仏像が水面に現れたとのことです。
同様に6月には、四川省安岳(あんがく)県の書房壩(しょぼうは)貯水池でも20体を超える仏像が完全な形で姿を現しました。
安岳県当局が2020年に発表した情報によれば、この貯水池は1970年代に建設され、それにより歴史ある聖燈寺(せいとうじ)が水没し、数千体に及ぶ仏像が水中に沈められました。また、羅漢寺(らかんじ)や仏済寺(ぶつさいじ)も一部水没しました。枯水期にはしばしば仏像が水面に現れることがあるとされています。
王維洛氏は、中共が三峡ダムを建設した際の事例を挙げ、「三峡ダム工事が開始された際、一時的に文化財の救出が行われたが、その地域の文化財や古跡があまりにも多く、救出に時間がかかったため、中国共産党は待とうとせず、大部分の文化財や古跡は発掘されることなく水没してしまった」と語りました。
王氏はこれに対し、エジプトのアスワン・ハイダムの事例を比較に挙げました。当時、アブ・シンベル神殿が水没の危機にさらされた際、エジプトは「財政的に救済できない」と表明しましたが、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が救済を呼びかけ、ドイツなど先進国が資金を提供して救出作業が行われました。工事の大部分はドイツ企業が担当し、莫大な費用がかかったものの、世界文化遺産を守ることができました。
文化の破壊は文化大革命の延長か
中国問題専門家・王赫(おう・かく)氏は、「毛沢東時代、中共は大量の貯水池を建設し、その過程で多くの宗教聖地が水没した。正確な数は把握できないが、それらの多くが永久に失われた」と述べました。
王氏はまた、「最近になって、どこかの貯水池の水が枯れ、仏像や文化遺産が姿を現したという報道が相次いでいる。それによって、中国の古代文化がいかに輝かしく、壮麗であったかがようやく再認識されている」と指摘しています。
王氏は、これは中共が水利建設という名目で、実質的に別の形で文化大革命を行ったものであり、歴史文化遺産を人々の目から隔絶し、民族文化の継承を断つという、深刻な文化破壊であると述べています。
1966年から1976年にかけて中国本土で展開された「文化大革命」では、寺院や仏像が破壊され、数多くの文化財が焼失しました。この時期は、中国伝統文化が集中的に破壊された政治運動として記憶されています。
(翻訳・藍彧)
