無錫排骨(写真撮影:看中国/李青城)

 「無錫排骨」(ウーシーパイグー)とは豚の骨付きばら肉を甘辛く煮た有名な漢民族の伝統料理であり、本来は「無錫醤排」と呼ばれる甘辛い味が特徴の無錫料理の代表である。

 「無錫排骨」は肉料理にも関わらず、あるお坊さんから生まれたものであり、その由来はなかなか面白い物語である。「済公」は中国南宋時代に杭州の僧であり、当時の江南には知らない人がいないと言うほど有名だった。伝説によると、無錫排骨は済公が考案して発明されたと伝われた。

 南宋時代のある日、ある破れた袈裟(けさ)を着けており、ボロボロな団扇を持っている各地を遊行しながら托鉢する行脚僧が無錫城の南禅寺にたどり着いた。彼は風狂の姿で道を歩き、ある肉屋の前に足を止め、乞食(こつじき)をする。その肉屋の店主は店に閑古鳥が鳴いていることに悩んでいるところ、「お金はないから、お肉でもいいならどうぞ」と肉の塊を行脚僧に渡そうとしている。彼は僧が肉を取らないと思っているのに、この風狂の僧はまさかその肉を取ってその場で食べ切って、更にもう一枚、もう一枚と次から次へ、肉を手に入れて食べ続けていた。

 結局、店にある肉が全て食べ尽くされてしまった。店主驚いて「肉は全てあなたに食べられたから、俺はもう売るものがないよ、どうしよう」と文句を言った。「そうなら骨付きばら肉を売ればいいだろう!」と行脚僧はボロボロな団扇から数本の茎を抜き出して店主に渡して、「これらの茎を骨付きばら肉と一緒に鍋で煮込んだら良い。俺さっき食べた肉は将来倍返すから」と言った。店主は疑問を持って試してみた。結局奇妙な香りが無錫城に溢れて、大勢の人がこの骨付きばら肉を買いに来て、買い占めブームになった。店主が骨付きばら肉を売り切ったあと、まさか神様と出会ったとようやく分かり、探そうとしたら、その行脚僧は既に行方不明となった。尋ねたら、その行脚僧は杭州霊隠寺の済公和尚である。

済公和尚(イメージ:YouTube動画のスクリーンショット)

 済公和尚(1133年-1209年)戒名は道済、俗名は李修缘。出身は官の家庭なのに、佛法修煉と解けない縁があり、俗世の生活に興味なく、結婚を逃げるために和尚になった。彼は霊隠寺で厨房の仕事を担当し、毎日辛抱して修行がますます精進しつづ、最終に頓悟して、神通力が身に付けることになった。人に見破れられることに心配するため、敢えて風狂な行為と偽装し、浄慈寺にお経を転写する仕事の担当に移った。

 ある日、皇帝が済公の書いたある文章に絶賛して三万貫の銭を布施した。寺院の長老は寺院の増築にその布施金で四川から材木を購入しようとする。済公は神通力を運用して三日以内に七十本の材木を四川の峨眉山から寺院の井戸の中まで運び、更に井戸の中から一本一本外へ投げ出した。しかし最後の一本は取り出されていないため、その井戸は「木を運ぶ井戸」と命名された。未だにもまだ浄慈寺の古蹟名所となっている。

 しかし当時、済公が自分の神通力を暴露した。厨房の仕事やお経を転写する仕事を担当する大したもんではないのに、神通力を持つというのが、他の地位の高いのに修行に専念しない和尚らに嫉妬され、寺院から追い出された。それ以来、済公の生活は定着なし、乞食で生活しながら、医術で人を救助したり神通力を運用して悪を制裁したりするなどの逸話が伝えられてきた。

 行脚僧として、食べ物の供給がないため、寺院の戒律を守れず、彼は仕方なく、釈迦時代の修行要求で、食べ物しか受け取れなく、且つ受け取った食べ物は選べなく食べるという乞食生活にした。時に肉しか入手できないので、彼は食べるしかない。無錫で肉屋さんに乞食したのもこの訳である。

 それにしても、済公はただめしを食べない。恩返しのために、肉屋さんに骨付きばら肉の作り方を教えてあげて、店主はこの料理のおかげで商売繁盛となり、この世にも一つの美味しい料理が生まれた。それ以来、この肉屋は骨付きばら肉の商売をしており、この料理もだんだん広まっていた。

 長らくの発展に経ち、百年前に無錫排骨という料理は既に成熟しており、北派と南派との流派があり、それぞれの愛好者がいるという。その後、北派と南派の作り方が融合して、現代の無錫排骨が生まれた。

 無錫排骨の作り方はもう秘密ではない。一般家庭でも簡単に召し上がることができる。皆さんが甘酸っぱい無錫排骨を堪能する際に、外見は風狂だが、悪を罰し、善を行い、恩をうけて必ず恩返しする偉い和尚済公を思い出すのかな?

(文・李青城/翻訳・Jerry)