絹本淡彩蘭溪道隆像( パブリック・ドメイン)

三、二度も配流(はいる 島流し)されても、熱心に禅を説く

 建仁寺にいること3年、蘭渓は再び鎌倉に戻りました。

 北条時頼が亡き後、1268年、嫡子の北条時宗が執権を取りました。

 建長寺に戻ると、蘭渓の禅風が鎌倉、京都を中心に盛況であることに嫉妬する者が現われ、「蘭渓は恐ろしい人物だ。幕府の政権を覆して天皇親政を企んでいる」と根も葉もない流言を飛ばしました。

 そして、蒙古襲来(元寇)の際、蘭渓は元からの密偵の疑いをかけられ、建長寺を追放され、甲斐国へ配流されました。
蘭渓は冤罪であることを全く弁明せず、むしろ喜びの顔で弟子たちに、「仏弟子は忍辱行(耐え忍んで心を動かさない修行)を第一とするものである。決して怒りの心を起こしてはならぬ」と説いたそうです。

 甲斐国に入ると、数多くの僧侶と俗人が集まり、たちまち建長寺や建仁寺と同じように盛んな説法の席が開かれるようになりました。そして、蘭渓は甲府で東光寺を開創しました。

 3年後、蘭渓は許されて鎌倉に戻りますが、また讒言(ざんげん 他人を陥れようとして、事実をまげ、悪しざまに告げ口をすること。)にあって、再び甲府に流されました。

 やがて真相が判明し、冤罪が晴れた蘭渓は、1278年、三度目の建長寺でしたが、同年7月24日、建長寺で示寂しました。66歳でした。

東光寺仏殿(山梨県甲府市)(イメージ:Wikimedia Commons さかおり CC BY-SA 3.0

四、禅師号となる「大覚禅師」が贈られる

 蘭渓は渡来した時、日本の禅宗の現状を見て、南宋の純粋な禅を広めようと志しました。それから30数年間、彼は緩まず努力し、日本の禅宗の発展に多大な影響を与えました。

 蘭渓の門下、葦航道然、桃渓徳悟、無隠圓範、約翁徳倹などの有名な弟子を輩出する他、中には安達景盛の娘・千代野(後の尼僧無着)もいました。絶世の美女である千代野は、燃える炭を顔にあて、その美貌を自ら捨て、出家しようとする固い決意を示し、それに感動した蘭渓は、千代野の出家を承諾し、「無着」という法名を彼女に与えた、と言う有名な話もありました。

 更に、蘭渓は書、芸術、文学、建築などにも造詣が深く、それらの領域においても日本の文化に新たな風を吹かせました。

 蘭渓道隆の死から1年後、亀山上皇から、日本初の禅師号となる「大覚禅師」が贈られました。

(おわり)

(文・一心)