かぐや姫を籠に入れて育てる翁夫妻。17世紀末(江戸時代後期)メトロポリタン美術館蔵( パブリック・ドメイン)

 『竹取物語』は、『源氏物語』の絵合の巻に於いて「物語の出で来はじめの祖」と評され、日本最古の物語とされています。伝承された説話をもとに10世紀中頃までに成立し、作者は未詳となっています。

 物語は竹取の翁の紹介、かぐや姫の出生、5人の貴公子の求婚、帝の求婚、かぐや姫の昇天という内容からなっており、素朴で簡潔な文体で語られていますが、中には実に多くの謎、予言、秘密が秘められており、1000年経った今でも、それを読むと、作者の仏典と漢学の素養の深さ、社会に対する批判の鋭さに感心すると同時に、考えさせられることが多くあります。

 ここでは、幾つかの要点を取り上げてみたいと思います。

一、世にある真の宝物の集結

 物語の中で、美しく成長したかぐや姫は多くの男性の心を魅了し、大勢の求婚者が現れましたが、中でも5人の貴公子が最も熱心でした。そこで、かぐや姫は、5人に対し、「仏の御石の鉢」、「蓬莱の玉の枝」、「火鼠の皮衣」、「竜の頸の玉」、「燕の子安貝」をそれぞれ献上することを婚姻の条件として命じました。結局誰も、成し遂げられなかった、との話が残されています。

 「仏の御石の鉢」については、玄奘の『大唐西域記』(646年に成立、全12巻)と北魏の地理書『水経注』(515年の成立と推定される、40巻)には、釈迦が使用したこの鉢についての記述がありました。釈迦が出家した後、全ての欲を棄てるようにするため、殆ど何も持たず、修行僧と一緒に家々を巡り、鉢を持って生活に必要な最低限の食糧などを乞いました。釈迦が使用した「仏の御石の鉢」を持ってきてほしいというのは、作者が仏を修める人に対する尊敬の意を表しており、作者自身も僧侶ではないかとも推測されています。

 そして、かぐや姫は庫持皇子に「蓬莱の玉の枝」を持ってくるように求めました。庫持皇子は人に偽物を作らせましたが、しかしそれは見事に見抜かれてしまいました。

 物語の中には、「『庫持皇子は優曇華の花を持って上京された』と騒ぎになりました」との表現があり、そのため、優曇華の花であったのを「蓬莱の玉の枝」に書き換えたのではないかとも思われています。

 「竹取物語」の中で、優曇華の名前が出たのも興味深いところです。

 優曇華(ウドンゲ)とは、仏教経典では、3000年に一度に咲く花で、花が咲く時期に転輪聖王が現世に出現し、世の人を救済すると言われています。3000年に一度しか咲かない花という事で、架空の花とも言われています。しかし、最近では、世界各地で優曇華が咲いたとの目撃情報が多数伝えられており、実在した花として注目されています。優曇華の花が咲いていることから、転輪聖王が現世に出現することも連想させられ、とても興味が湧くところでした。

韓国全羅南道の順天市須弥山禅院の佛像に咲いた優曇華(写真・徐良玉/大紀元)
台湾の画家・陳国棟さんが記録した優曇華が開花する全過程(写真・戴慧瑜/大紀元)

 さらに、中国前漢の伝奇集『神異経』(作者は東方朔 紀元前154年~92年の人)に記載された「火鼠の皮衣」や「竜の首の玉」は『荘子』雑篇(今から2300年前に成立したとされる古典)から出典した「竜の首の玉」、そして、殷王朝(紀元前1600年~1046年)の時代に貨幣として、とても希少価値が高かったとされる「燕の子安貝」も求婚の宝物として上げられ、大変貴重な宝物の集結で、由緒のある品々ばかりでした。

 これらの宝物から、仏教、道教、老荘思想、史書・伝説…、多様性に富んだ作者の学識の豊富さと深さに敬服するしかありません。

 一方、この世では殆ど入手不可能なこの宝物を、5人の貴公子達は自分には財力、社会地位があると心酔し、冷静さを失いながら、必死にそれらを探し求めました。結局、5人ともことごとく失敗し、破滅へと突き進んでしまいました。ここでは、作者は人間の傲慢さ、思い上がり、浅薄さを風刺しています。

(つづく)

(文・一心)