清・許良標「芭蕉美人図」( パブリック・ドメイン)

 

 明王朝期の女性は、三層の衿に狭幅の袖をしている丈三尺以上の上衣に、裙の裾を二、三寸ぐらい露出させるのが特徴的なファッションでした。折りひだのある裙(現代に言う「プリーツスカート」)が盛んに流行り、細いプリーツから太いひだまで、様々なプリーツスカートがトレンドになりました。そんなプリーツスカートに付ける飾りにも凝っていました。花鳥模様の刺しゅうを施し、金糸の縁飾りがなされる数本の彩緞(さいたん、色鮮やかな絹織物)を合わせて腰帯に貼りつけた「鳳尾裙(ほうびくん)」は、鮮やかで美しく、彩緞の飾りがまるで宙に舞うプリーツスカートになります。また、霞のように美しい刺しゅうの肩掛け・「霞帔(かひ)」が明王朝の女性の間に大流行していました。

明・仇英の「千秋絶艶図」局部(パブリック・ドメイン)

 明王朝期に、男性の代表的な服装の特徴は、大円衿の服を着ることと「四方平定巾」という帽子をつけることで、いわゆる「方巾円領」でした。労働者の男性は青色の木綿製の服を着ていました。また、官員の服は基本的に雲の模様のある錦で作られた円衿の服・「雲緞円領袍」で、雲緞の羽織を羽織る着方もありました。「雲緞円領袍」は、着丈が地面から1寸しか離れておらず、袖丈も指先を超えてしまいます。袖幅は1尺もあり、袖口幅は9寸もあります。そんな「雲緞円領袍」には、真っ赤な履物を履くのが定番のコーディネートでした。

明末の画家である王時敏(1592 – 1680年)(パブリック・ドメイン)

 

 清王朝には、着丈の長く袖幅の狭い満服(満洲族の衣装)が流行りました。満洲族の衣装・旗装は、全体的なシルエットは縦長の長方形で、腰の位置で上下半身に分けることはありません。鞍の形をする衿は頬の下半分を覆い、中心から離れた右衽を「盤扣」という結び芸で作ったボタンで飾ります。二、三枚の飾り袖は、馬蹄の形をする袖は手を覆います。そんな工芸品の飾りをした旗装の上に、そでなしや馬褂(マンダリンジャケット)を着用することもありました。旗袍(チイパオ)や丈の短い服の衿には、琵琶衿や大衿、対衿などの様々な形がありました。これに合わせるスカートやパンツは、模様染めや刺しゅう、シワ加工などの加工が施されました。

 清王朝の女性も公服・礼服と常服に大きく分けられます。「公服」は、皇后様から七品命婦まで規定されている制度に則った服です。「礼服」は、民間では冠婚葬祭で着用する服で、宮中では命婦の階級の差があります。そして多種多様な「常服」は用途に厳しくなく、少し自由になります。

清時代「雍正十二美人図」(一部)(パブリック・ドメイン)

 いかがだったでしょうか。古代中国の服飾を簡単に紹介しました。振り返って見ると、古代中国の服飾、特に礼服は、それに関する厳格な服制に従っていました。つまり、君、臣、そして四民は、それぞれの行動の原則と道徳の基準に従って生きていました。

 各王朝においての服飾は、特徴がそれぞれ異なり、関連性がないように見えますが、各王朝それぞれの文化の具現でありながら、異なる時期を生きた人類が授かった異なる知恵の具現でもあります。数千年にもわたる中国の歴史には、服飾文化が重要な一環となります。

 神伝文化を核心とする中国文化。歴史上のそれぞれの時期に、異なる天国世界の人々が中国に来て、異なる天国世界の文化を中国にもたらしました。そのため、中国の服飾文化を始めとする文化・芸術は、こんなにも多種多彩で、豪華絢爛になったのです。

(おわり)

(文・辛慧/翻訳・常夏)