『禅院額字方丈二大字』(伝張即之筆、東福寺蔵、国宝、パブリック・ドメイン)

一、日本の禅林墨跡

 日本の書道史上に、禅林墨跡という分野があります。それは優れた禅僧の書跡の事を指し、日本で独自に成立した概念です。「墨跡」という言葉は、中国では真跡全判のことを意味しますが、日本の場合、禅僧の真跡と言う極めて限った範囲にしか使わない習慣があります。

 禅林墨跡は鎌倉時代に禅宗の伝来とともに中国から伝来しました。当時、日本の書道は和様色一色でしたが、日中間の禅僧の往来が盛んになるにつれて、禅僧の破格法外の書風がもてはやされ、禅僧の書は特に「墨跡」と呼ばれ、珍重されるようになりました。

 印可状や法語()、字号など、僧侶が修行の一環として書かれる禅僧の墨跡は書いた人物やその内容が重視され、書の巧拙を問題とせず、書風も千差万別です。
墨跡として古くから、中国の傑僧・圜悟克勤、無準師範、虚堂智愚のもの、渡来僧・蘭渓道隆や無学祖元らのもの、また日本僧では、宗峰妙超、夢窓疎石等のものが最も尊ばれ、鑑賞されてきました。

(左)『規則』、(中)『法語』(蘭渓道隆筆、建長寺蔵、国宝、パブリック・ドメイン)、(右)『与長楽寺一翁偈語』(無学祖元筆、相国寺蔵、国宝、パブリック・ドメイン)

二、茶道と禅林墨跡 

 室町時代に茶道が流行すると、禅僧の墨跡は古筆切とともに茶席の第一の掛軸として欠くことのできない地位を獲得しました。

 そのきっかけとなったのは、「わび茶」の創始者とされる村田珠光が茶湯を興し、四畳半の茶室の床に一休からもらった圜悟の「与虎丘紹隆印可状印」を掛けたことでした。そして、茶湯が普及し、茶禅一味の思想が深まるにつれて、墨跡尊重の風潮が世間に広まり、ついに「墨跡は茶の道具の中でもっとも貴いものだ」とまで強調されるようになりました。そのような考え方は現在まで続いています。

 茶道の世界で最も尊重され、日本に伝わる最古の墨跡とされる『与虎丘紹隆印可状』は、北宋の高僧・圜悟克勤(えんごこくごん)(1063-1135)が書いたものです。圜悟克勤は、北宋の徽宗皇帝や、南宋の高宗皇帝からも尊崇を受け、『碧巌録』などの著者としても有名です。

 1124年12月、圜悟は弟子の虎丘紹隆に、悟りを開くことを証明する『与虎丘紹隆印可状』を書き与えました。しかし、不思議なことに、この印可状は何故か桐の筒に入ったまま、中国から薩摩坊津の海岸に流れ着いたそうです。この漂着伝説から、『与虎丘紹隆印可状』は「流れ圜悟」とも呼ばれています。『与虎丘紹隆印可状』は気品が溢れ、風格も高く、前半の19行しか現存していませんが、現在、東京国立博物館に所蔵され、国宝に認定されています。

『与虎丘紹隆印可状』(圜悟克勤筆、東京国立博物館蔵、国宝、パブリック・ドメイン)

三、中国には禅林墨跡が遺されていない

 中国では、最古の漢字とされる甲骨文が出現してから、漢字は書風や書体の変化を遂げ、三国時代にはすべての書体が成立したと思われています。そして、東晋の王義之を始め、初唐の三大家の欧陽詢、虞世南、褚遂良、宋の四大家の蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾等数多くの書道家が輩出され、流麗な行書、温雅な楷書、自由奔放な草体などの作品を多く遺存しました。書は中国で芸術として発展してきました。

 一方、伝統的な書法に対して、禅僧の書は僧侶の修行の一部として捉えられることが多く、技巧や書の美しさより、書風の独自性を強調するものだと見られていました。そのため、禅僧の墨跡は中国では書として評価されない傾向が強く、禅僧の書も殆ど遺されていないようです。

 禅僧の墨跡が中国に遺されていないもう一つの理由は、中国では仏教そのものが何度も破滅的な打撃を蒙った歴史があるため、その存在が確認できなくなったのかも知れません。

 日本においては、禅林墨跡は嗣法や門派の証、また高徳の僧を偲ぶものとして、寺院に代々伝えられてきました。今、日本に現存する中国禅僧の墨跡は殆ど中国本土でさえ見る事の出来ないとても貴重なものとなっています。

※法語(ほうご)とは、師僧が修行僧に悟道の要諦を書き与えたもの。(ウィキペディアにより)

(文・一心)

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