『新刊古列女伝』挿絵(パブリック・ドメイン)

 春秋時代の一国、晋(しん、紀元前11世紀 – 紀元前376年)に度胸と優れた見識を持った娘がいた。彼女は娟といい、河津吏(河の渡し場役人)の娘であった。娟は父の命を救ったばかりでなく、晋国趙家の当主趙簡子との素晴らしい縁組が結ばれた。

 趙簡子(趙鞅、ちょう おう、?―紀元前476年)は晋の政治を取り仕切っていた。ある年、晋の大軍が楚へ出征する際、埠頭業務の責任者であった娟の父が酒に酔い、大軍が河を渡る時間を遅らせてしまった。趙簡子はたいそう怒り、河津吏を斬罪にするつもりでいた。娟は怖くなり、父親を船に乗せて逃走しようと考えた。娟を見かけた趙簡子は、「何をそんなに急いでいるのだ?」と声をかけた。

 娟は、「私は河津吏の娘でございます。父の話によりますと、当主様が河を渡ろうとされるときに突風が起きてしまい、水の神が驚いてしまいました。心配した父は、水の神様にお供え物をして、当主様のご無事を願っていたそうでございます。ところが残った『お神酒』を飲んでしまったところ、酔ってしまったのです。当主様は父を殺そうと考えていらっしゃるのでしたら、私が代わりに死罪を受けとうございます」と説明した。

 話を聞いた趙簡子は、「これはけっしてお主のせいではない」と言った。

「当主様は父が酒に酔ったことで殺すつもりかもしれません。私は父が何の罪かも知らずにいるのが、もどかしく心が痛むのです。もし父が何の罪で死刑になるのかを知らされなければ、罪のない人を殺害するに等しいのです。父が酔いから醒めるのを待って、自分の落ち度を知らされてから死罪にしていただけないでしょうか」と娟が述べると、趙簡子は娟の言うことにも道理があると思い、河津吏を一時解放した。

 河を渡ろうとした趙簡子は、船を漕ぐ者が一人足りないことに気付いた。娟は袖をたくし上げ、船を漕ぐ為の櫂(かい)を持ち上げて言った。「私は川辺に住んでおりますので、櫂を使って船を漕ぐのは得意でございます。皆と一緒に船を漕ぐことができます」

 趙簡子は手を横に振り、「それはダメだ。出発前に重責を任され、斎戒沐浴(飲食や行動を慎み、身体を清めること)をしたばかりだ。今は船に女性と同乗することなどできない」と言って断った。

 すると娟は次のように述べた。「聞くところによりますと、成湯王が夏傑を滅ぼした際、軍馬は左に雌の黒馬、右は雌の野生馬でした。最後に成湯王は大勝利を収め、夏傑を追放したのでございます。また、周の武王が、殷の商氏を討伐したときの軍馬も左に雌の黒馬、右は雌の白馬でした。最後にはやはり武王が紂王に勝利し、軍の威風は華山まで至りました。当主様は、河を渡るだけにすぎません。私と同じ船に乗ることで何か危害がございますか?」

 娟の話を聞き終えた趙簡子は、機嫌を良くして娟と共に渡し船に乗った。船が河の中間まで来ると娟は歌い始めた。

船で河を上れば、目の前は澄み切った水
波が高く上がれば、暗くて前が見えなくなる
当主様のご加護を祈った父上は酔ったまま目が醒めない
殺されてしまうかと思うと心配で居ても立ってもいられない
お咎めを免じてもらえないでしょうか
河の水は澄み切って底まで見える、私は櫂をもって船をこぐ
「水竜よ、当主様が勝利するように助けておくれ」と願いながら船をこぐ
勝利と無事を信じて船は前に向かってまっすぐに進む

 娟は歌詞に刑の免除と、水竜に晋軍を助ける祈り、当主の勝利と無事を願うことなどを歌詞に盛り込んだ。

 歌を聞いた趙簡子はたいそう喜び、「以前、妻を娶る夢をみたが、まさにこの女性ではないだろうか」と言った。家来に災除けと神への祈祷を申し付け、娟を妻にすることにした。

 しかし、娟は趙簡子に何度か会釈し、辞退の意を伝えた。「礼儀を申せば、儀礼に従うべきでございます。仲人さえおりません故、嫁には行けません。両親はおりますが、当主様のそのご命令に従うことはできかねます」と言って、丁寧に断りを入れると体の向きを変えて行ってしまった。

 趙簡子は結婚の儀礼に基づき、娟の両親に結納として十分な貨幣と多くの贈り物を渡した。望み通り娟を妻として娶ったのだった。

参考資料:『列女伝 弁通伝』(前漢の学者、政治家劉向(りゅう きょう、紀元前77年―紀元前6年)によって撰せられた)

(夜香木)