林冲は配軍となり滄州へ流された時高俅の命を受けた端公(役人)の薛覇と董超に命を狙われるが、魯智深により助けられる(北京・頤和園の回廊絵画)(ウィキペディア、パブリック・ドメイン)。

 唐から清まで中国では強制移住として流刑を刑罰の一種として採用していた。流刑の内容は時代背景を反映して様々な変遷を見せた。

 唐代において、流刑は三千里、二千五百里、二千里の三等級があった。また、死刑に対する減刑として加役流があった。罪人は妻や妾と共に強制移住させられ、配所で一年間服役した後田地を与えられ、移動を制限された。

 宋代になると、折杖法により強制移住は居作と杖刑に読み替えられた。これにより唐律方式の強制移住が完全に消滅し、徒刑の後退につながった。その背景には貨幣経済の発展により官庁が罪人を駆使して行っていた公共事業が、金銭を対価とする請負方式に変わったことが挙げられる。しかしこれにより死刑と流刑の格差が開きすぎたため新たに編配の制度が導入された。編配とは配軍・編管・羈管の総称だ。配軍は死刑を減刑する場合に用いられた無期刑で、廂軍に編入され、家族の同行義務はない。入れ墨をされる場合があり、軍の種類や配属先は様々であった。編管は遠隔地へ押送し、地元官庁の監察下で自主的に生計を立てることだった。また羈管について詳細は不明だが編管と似たような制度だと推測される。

 明代になると唐律の五刑は復活され、流刑は居作がなくなったが、死刑に次いで重い刑罰として充軍があった。罪人は軍戸に登録され、戸籍も軍籍となった。五つの等級があり、永遠のものと永遠でないものとがあった。永遠は子孫代々、永遠でないものは子孫に及ばなかった。

 清代は明代の刑罰を継承した。経済的理由により徒刑は事実上流刑と化した。また明代から始まった充軍は経済の発展により軍戸は必要がなくなり、事実上流刑と化した。資財や技術を有する者は地保の監視下で自由に生計を立て、そうでない者は食糧を支給され州・県に雇われた。老人や障害者は養済院に収容された。罪人の妻は同行義務があったが、後には希望する場合自己資金で赴くこととなった。

 発遣は死刑に次いで重い刑罰で、遠方に強制移住させられる刑罰だった。顔には入れ墨をされ、為奴、種地、当差の三等級があった。年数の違いはあるものの、一定年数が経つと自由の身になることができた。

注:
中国の小説『水滸伝』の登場人物の一人、梁山泊の豪傑・林冲(りんちゅう)は、上司や親友に裏切られ姦計によって配軍となり滄州へ流された。

(文・黎宜明)