決壊した板橋(バンチャオ)ダム(イメージ:Wikipedia / https://zh.wikipedia.org/w/index.php?curid=1639275)

 2005年5月28日、アメリカのテレビ番組「ディスカバリーチャンネル」で、「世界史における人為的な科学技術の過失による災害TOP10」という特集番組が放送された。同番組によると、世界史上、最も悲惨な人為的過失による災害は、1975年8月8日に、中国で発生した「河南省『75・8』ダム決壊事故」であった。しかしこの災害は、中国共産党政権により隠ぺいされていた。

 1994年、マレーシアで開催された某フォーラムで、中国共産党国務院長江三峡建設委員会副主任・魏廷錚は、1975年に河南省で発生したダム決壊事故について聞かれた時に、「詳しい死者数は覚えていないが、1万人を超えてはいないはず」と答えた。その理由はなんと、「ダム決壊事故の死者数が1万人を超えていたら、国際的に報道が必ず出るはずだが、そうならなかったから。」

 しかしそれは真っ赤な嘘であった。

 まず、北京政府はこの事件を隠ぺいしたため、国際社会が報道できるはずがなかった。当時の新聞を調べても、「河南省では軍民一致となり(軍人と一般人が一つになって)洪水被害の復旧を」とのニュースが数本放送されただけだったので、当時、河南省に洪水災害があったことくらいしか分からない。北京政府は、今もなお、調査報告書や事故の経緯分析などに関する詳細情報を公表していない。

 1979年、中国水利部淮河委員会は、板橋(バンチャオ)ダムを含めるダム決壊事故に関する調査報告書を作ったとのことだが、その報告書は機密文書とされ、公表されることはなかった。また、1975年8月の河南省豪雨災害に関する科学教育映像では、板橋ダムなどのダム決壊事故の内容に言及はしたが、公開放送はされなかった。筆者は1979年、大学の気象学の授業中にその映像を見たことがある。

 また、1975年、河南省の板橋ダムと石漫灘(シーマンタン)ダムの2基の大型ダム、および竹溝(ジューゴー)ダム、田崗(ティアンガン)ダムを含める58基の小型ダムの決壊事故による死亡者数は、1万人をはるかに上回っていた。

 このダム決壊災害による本当の死亡者数について、様々な主張がある。

 1982年、鄧小平は三峡プロジェクトを承認し、国内外から多くの反対を受けた際、板橋ダムなどのダム決壊事故も再び注目を集めた。喬培新、孫越崎、林華、千家駒、王興讓、雷天覚、徐馳と陸欽などの中国人民政治協商会議の全国委員会委員と常務委員らの文章によると、事故による死亡者数は23万人に達していたとのこと。孟昭華と彭傳栄の著書『中国災難史』によると、この決壊事故により、1029万人が壊滅的な洪水に見舞われ、約10万人が即座に洪水に流されたとある。そして、中国科学院大気物理研究所の研究員・蔡則怡と趙思雄の報告によると死亡者数は10万人であった。ところが水利部の報告によると、死亡者数は2.6万人であった。そして、前述したように、長江三峡建設委員会副主任・魏廷錚によると、「死亡者数は1万人を超えているはずがない」となる。

 魏の言葉の真偽を見極めるため、この河南省“75・8”ダム決壊事故のことを簡単に紹介する。

 板橋ダムと石漫灘ダムは淮河の上流の支流に位置し、淮河の治水事業における主要なプロジェクトの一部である。1950年代後半まで、貯水を唯一の目的とし、淮河では貯水池の建設に適する全ての場所に、板橋ダムと石漫灘ダムといった9基の大型ダムと無数の中小型ダムを建設した。この治水戦略は「満天の星」もしくは「ブドウの房」と呼ばれた。

 1975年8月4日、河南省一帯は台風による豪雨に見舞われた時、降雨が最も多かった2か所は、まさに板橋ダムと石漫灘ダムの上流であった。8月7日の降雨量は1,005mmに達し、中国本土気象観測所の最大の降雨量の記録を刷新した。8月4日から7日の3日間の総降雨量は1,600mmを超え、普段のこの地域の2年間の総降雨量よりも多かった。8月8日、台風による降雨の中心は河南省南部に移動した。

 豪雨が発生する数か月前、河南省南部で干ばつが発生していた。そのため干ばつ対策として、8月4日の降雨が始まってから3日間、各貯水池は放水することなく、ひたすら貯水し続けていた。降雨量が多かったため、貯水池の水位は急速に上昇し、みるみるうちに警戒レベルを超えた。結果、板橋ダム、石漫灘ダムの2基の大型ダム、および竹溝ダム、田崗ダムを含める数十基の中小型ダムは、水没決壊の事故に至った。

 ダム決壊は、8月8日の深夜1時頃、多くの人々の就寝中に発生した。洪水は堤防を崩壊し、下流の村や家屋を飲み込み、合計680万戸以上もの家屋を破壊した。ダムの下流に位置し、洪水の流れに対して垂直方向に建てられた中国の最も重要な鉄道路線である京広線(北京~広州)の線路も100キロ以上に渡り破壊された。一部の区間の鉄道路線は丸ごと消滅したり、ねじれたりしたため、京広線は18日間も運転を見合わせることとなった。

 洪水を分流させるため、やむを得ず、淮河の中下流の複数のダムを爆発させ、人工的にはけ口をつくり、被災面積を増やすことで洪水の破壊力を減らすことにした。しかしあまりにも急遽だったため、事前に情報を得られなかった多くの住民は逃げ遅れ、分流された洪水で命を落とした。この洪水災害は20以上の県と市に及び、1200万人が被災し、直接的な経済損失は約100億元となった。

 ダム決壊に多くの原因があったが、中でも最も直接的な原因は、貯水池の排水口の水門が錆び付いていて、開けることができなかったという人為的なミスが発端であった。

 8月7日、板橋ダムの貯水池の水位が警戒レベルを超えて、初めて貯水池の排水門を開けて排水をしようとした。しかし管理が不十分で、排水門は何年間も開かれることがなかったため、錆び付いていて開けることができなかったのだ。緊急を要する状況の下、排水門を開ける方法を検討する時間はなく、ダムの安全を考慮すると、爆発物で排水門を爆破することもできなかった。

 全てが手遅れであった。洪水はダムを決壊し、下流の数十基のダムをも次々と崩壊し、近辺の町に未曾有の大惨事をもたらしたのだった。

(文・王維洛/翻訳・常夏)