一、東皐心越禅師(とうこう しんえつ、1639~1695)

 東皐心越禅師は明代末の曹洞宗の禅僧です。中国の浙江省浦江県で生まれ、幼くして仏門に帰依し、その後、曹洞宗寿昌派三十五世正宗となりました。1676年、同じく浙江省出身の長崎興福寺の澄一道亮禅師の招致を受け、38歳で来日しました。

 心越は優れた禅僧であると同時に、類いまれな文化人でもあり、特に詩文・書画・篆刻・琴楽に長けていました。紆余曲折を経ながらも、1681年7月、心越は水戸藩主徳川光圀(1628-1700)より朱舜水の後継者に任命されました。心越禅師の下に禅学の指導を求める求道者は後が絶たないだけではなく、当時の文人や漢学者も心越から中国文化を幅広く教わりました。そして、平安時代以降、すっかりと途絶えてしまっていた日本の琴は、心越禅師の伝授により再興に至り、その功績から「日本の琴楽の中興の祖」と称されました。

 二、断絶した日本の琴

 琴(きん)の誕生については、中国の神話時代の伏羲、神農が五弦の琴を作り、周の文王・武王親子がそれぞれ一本ずつ絃を加え、現在の七絃になったと言われています。

 琴は陰陽五行説によって構造され、各部の寸法、その形状も宇宙を象徴的に表現し、基本的な法則に則って作った琴であれば、太古の音色を得ることができると伝えられています。

「九霄環佩」 唐の名琴(The original uploader was CharlieHuang at English Wikipedia. / CC BY-SA

 琴が日本へ最初に伝来したのは弥生時代にまで遡ると言われています。平安時代においては、嵯峨天皇、橘逸勢、菅原道真らが弾琴したことが知られ、『宇津保物語』、『源氏物語』の中で、琴は崇高な音楽芸術として書かれています。

 しかし、平安時代以後、約600年の間、琴の演奏伝承はほぼ途絶えてしまいました。その後、再び日本で琴が本格的に演奏されるようになったのは、江戸時代に入り、心越禅師が来日してからでした。

 三、琴楽の再興

 琴に関しては、心越は大変な「琴痴」のようでした。来日した際、法具、法典、書籍等、身の回り品以外、琴だけでも10面程も持って来ており、他に琴に関する書籍も携えていました。心越が日本に伝えた琴楽、琴法は、江戸中期の日本文化界で反響を呼び、日本儒界や官界の文人もその門下に集まりました。朱舜水と交友の深い儒学者、漢詩人の人見竹洞(1621-1688)は心越の最初の弟子となり、琴芸の継承者になります。

 竹洞は心越から数十曲を習得し、 心越の「海外の知音」と称されました。

 心越の伝授により、日本の琴が復興し、当時の大名、武家、儒学者、画人、詩人に至るまで、文人を自認する者の必須の教養として、琴は広まりました。心越が中国から持って来た琴譜は、後に弟子たちによって『東皐琴譜』等に整理され、後世に伝えられました。

 四、道徳価値が付随する「琴楽」

 「琴楽」というのは、決して琴の音楽やその知識、演奏技法等の側面に留まらず、弾琴に伴う精神と、それに付随する儒・仏・道の思想が含まれており、「琴楽」、「琴道」とも呼ばれています。

 伝統的な琴の弦は絹絃を張ったもので、その音は極めて小さくて幽玄であるため、騒々しい現代社会では、その太古の音色を聞き分けることは難しいでしょう。今の中国では、琴の音量を大きくするため、琴の絃を絹からスチールやナイロンの絃に殆ど替えられ、その演奏技法も派手になり、演奏家を輩出しています。しかし、琴楽に於いては、聴衆に受け入れられ拍手を浴びることよりも、琴を通じて徳を修め、君子としての人格を完成させることがその本来の目的なのです。

 琴は楽器でありながら、それを超越した存在として現在も伝承されています。

七絃琴演奏 白雪 伏見无家:

(文・一心)