朱舜水(しゅ しゅんすい、1600年〜1682年)は明王朝の遺臣で、明末清初の変乱に際し、明王朝の復興を図り4度来日しましたが、1659年、明王朝復興運動が失敗に終わった舜水は、そのまま日本に亡命し、帰化しました。当時の舜水は60歳間近でした。日本に逃れてから、舜水は長崎に6年間在住し、儒者の安東省庵のもとに身を寄せていました。省庵はその学徳を知って師事し,少ない自分の俸禄の半分を舜水のために援助し続けました。その後、舜水の門下に多くの儒学者が集まり、日本の儒教発展に大いに貢献し、歴史にその名が刻まれました。

 1665年、舜水は「水戸黄門」として馴染みのある徳川光圀に招かれ,水戸藩の賓客となり、厚遇されました。舜水は水戸藩の学事に協力し、亡くなるまでの17年間、舜水は光圀の賓師、顧問を務め、二人の間で交流を重ねました。

 この交流からいくつか大きな建築造園工事が生まれました。そのうちの一つが小石川後楽園でした。この庭園は1629年に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる)の営造に着手し、二代藩主の光圀が完成させたものです。光圀は作庭に際し、舜水の意見を取り入れ、庭園の至る所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国的且つ儒教的な趣のあるものに仕上げました。そして、中国・宋の范仲淹の『岳陽楼記』の「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から、「後楽園」と名付けられました。

 また舜水は、孔子廟の設計も行いました。用途の異なる建物、門、廊下と橋の配置、屋根のデザインにいたるまで、細かい設計図を描きました。この設計図は湯島聖堂の建設にも使われ、舜水自身も大工職人による模型作りの場に臨んでいたと伝わっています。舜水が日本に持ってきた孔子像の一つは現在湯島聖堂に収蔵されており、政府に献納した釈奠器は、現在東京国立博物館に収蔵されています。

聖堂(江戸名所図会より)(パブリック・ドメイン)

 舜水の儒学思想は朱子学や陽明学にとらわれず、実理・実行・実用・実効を重んじ、水戸学思想の基礎を作りました。そして、舜水は『大日本史』の編纂に参加した安積澹泊、木下道順、山鹿素行らの学者に漢籍文化を伝え、『大日本史』や水戸の文化財に多くの漢籍を残しました。

 1682年、舜水が83歳で亡くなると、光圀は外国人の舜水を徳川家の墓所に葬りました。光圀の舜水に対する深い情が感じ取れます。光圀が藩主の座を退いた後、1691年から1700年に没するまで、常陸太田市の西山荘で晩年を過ごし、『大日本史』の編纂に尽力しました。西山荘の庭を造営する際に、光圀は庭の中央に心の形をした心字池(しんじのいけ)を作りました。書斎の竹の丸窓から見ると、「心」の字が鏡文字になっているこの池は、「心は表面だけではなく、裏側から見ても潔白でなければならない」という舜水の教えを表現したものだそうです。そして、心字池には「泥中の君子」である白蓮が植えられており、白蓮池とも呼ばれています。

(文・一心)