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 歴史的記録によると、車を発明したのは4000年以上前の夏王朝の奚仲(けいちゅう)という人物である。車の発明は、不便な交通問題を解決しただけでなく、道路の発展を促し、貿易輸送や文化交流を拡大させた中国技術史の大変革であった。
                                                                                   
 奚仲の車作りは中国の伝統文化を構成する大きな出来事である。馬車の登場により「重いものを長距離に移動する」ことが可能となり、人々が長距離移動するための条件が大幅に改善された。
 
三聖人

 河南省平輿(へいよ)市には、船を造った奚仲の父・番禺(ばんぐう)、車を造った奚仲、馬を飼いならした奚仲の息子・吉光を記念するために建てられた祠がある。奚仲たちは船・車・馬の神とされ、「三聖人」として拝められていた。
 
 『山海経』によると、まだ舟がない時代に奚仲の父である番禺は川泳いでいるとき、川の下流に大きな木の幹が浮かんでいるのを見てひらめいたそうだ。木の幹に溝を掘ると人が座れ、これが舟の最古の原型となった。しかし、水に沿って漂流するしかできないことに気付き、さおとパドルを発明するにまで至った。
                                                                
 奚仲は、舟を元に車を発明し、夏の禹王から「車正」と任命された。奚仲の車作りについて『孟子』、『荀子』、『呂春秋』にも記録されている。

車作りのきっかけ

 奚仲は、夏の禹王の治水に協力したことで功績を残したため、禹王は摯地という土地を彼に与えた。摯地は平坦かつ肥沃で木々が生い茂っていて、生活や労作に適していた。奚仲はある小さな川の川辺に定住することにした。この川は、現在の平渓市を流れる小青江だ。
 
 奚仲はこの地で一族を率いて木を伐採して土地を開墾し、家を建て、生活環境が急速に改善された。しかし、交通がとても不便だった。 車がないためにすべての荷物を肩で担がなければならず、距離が長いと運搬が大変だった。
 
 奚仲は汗だくで必死に物を運ぶ人たちを見て、人の労力を減らすのに物を運ぶなにかを作ることができないかと考えた。よく観察してみると、人手で物を運ぶよりも、丸太の上で物を動かしたほうがはるかに手間が省けるのだ。丸太の上に何か置いてみたらどうだろうか。

 彼はまず太い木を選んで、いくつかに切断し、中を切り抜けて丸い木の輪を作った。木の輪の真ん中に穴をくりぬき、二つの輪の穴に木の棒を通して、転がして見たら、とても軽快に動いた。両輪の真ん中に何か荷物が置けるように、両輪の真ん中に十字型の木を入れた。このようにして、二輪で前進できる車が誕生した。より多くのものを上に載せられるように、十字のところに板をいくつか追加し、載せるスペースを拡大した。 また、奚仲の息子の吉光は、車がぐらついたときにものが落ちないように柵をつけることを提案した。

 しかし、この車には大きな弱点があった。それはバランスが悪いことだ。上に乗せたものが重さがすこしでも不均等だと、傾斜になったり、滑り落ちてしまう。

太平車(ウシグルマ)の誕生

 バランスが悪い問題を解決するために、奚仲は車輪の位置を調整することで、もう一つの改革に成功した。もともとあった2つの車輪を前部と後部に分け、同じ大きさの車輪を4つにしたのだ。このように4輪で着地することで、バランスの問題が完全に解決されただけでなく、耐荷重も大幅にアップした。このようにして四輪車が誕生した。四輪車は、その軽さ、柔軟性、耐久性から人気を博し、後に「太平車」と呼ばれるようになった。

 禹王は奚仲が作った車に大喜びし、奚仲を「車正」に任命し、「輿(こし)」の製造、普及を命じた。
 
馬車の誕生

 奚仲が作った車の品質について、『管子』ではこのように書かれている。「奚仲が作った車は角、丸、曲線、直線、円、直角など、全部直線定規、円形ゲージなど計測機器になれるほど正確的だった、パーツのフィット感も良く、とても頑丈で使いやすい」と高く評価されていた。これらの史料から、奚仲が発明した車はすでに高いレベルに達していることがわかる。
 
 奚仲の息子吉光は車作りの手伝いをしてから、野馬を飼いならすことに成功した。馬で車を引っ張ることで車の速度が大幅に速くなり、禹王から「馬の神」と名付けられたという。こうして馬車の普及が始まった。
 
 飼いならされた馬は、「止まれ」や「走れ」といった言葉を理解できたので、「神馬」と呼ばれていた。当時、奚仲一族が率いる摯国は夏王朝へ貢ぎ物する立場であった。その主な貢物は、車と神馬だった。後に吉光の子孫が作った乗り物の多くは、夏王朝への貢ぎ物以外に、各部族の君主に買われ、お互いに最高級の贈り物として贈られたりしていた。
 
(文・岳君仁/翻訳・藍彧)