最近、中国の高速鉄道内で起きた口論の動画が、中国のSNSで大きな注目を集めました。

 動画の中では、車内で大声で騒いでいた若い女性が周囲の乗客から抗議を受けていました。音量を下げるようにというもっともな注意に対し、彼女は謝罪するどころか逆上し、他の乗客に対して暴言を吐き捨てたのです。その攻撃の中で、彼女は自らが最も威嚇力があると信じる2つの「武器」を振りかざしました。それは「お金」と「権力」です。

 彼女はまず、自らの経済的な優位性を強調しました。「普段出張の時はビジネスクラス(中国の高速鉄道における最高クラスの座席)に乗るけれど、今日は自腹だからランクを下げて一等車にしたの。これでよくわかったわ。500から600元(約1万円強)多く払ってビジネスクラスに乗る人たちのほうが、一等車の人たちよりよっぽど民度が高いのね」。それに続いて、今度は権力をチラつかせて恫喝し始めました。「うちの家族は全員『体制内』(政府や国家機関などの公的部門で働いていること)よ。一番上の姉は10年も交通警察にいて、隊長なのよ。朝陽市(遼寧省)では、うちは『地頭蛇』(その土地で絶大な権力とコネを持つ地元のボス)なんだから。私に逆らうなら、電話一本であんたを痛い目に遭わせてやるからね」。

 数日後、地元警察は、この女性の「華麗なる背景」は全くのデタラメであり、彼女本人も家族もごく普通の市民であるという声明を発表し、事態の沈静化を図りました。しかし、多くのネットユーザーはこれを言葉通りには受け取らず、こうした公的機関の危機管理において、事なかれ主義で波風を立てずに済ませようとするいつもの言い訳に過ぎないと考えました。

 しかし、彼女の身分が真実であれ嘘であれ、この騒動が世間の議論から消え去ることはありませんでした。それはまるで社会の縮図のように、一つの深刻な問いを極めて直接的に人々に投げかけたのです。「現在の中国社会において、いったい誰が最も中国人を軽蔑しているのか」と。

 その答えは、ある意味で非常に残酷な現実を突きつけています。それは「中国人自身が、中国人を軽蔑している」ということです。

 この口論の中で最も滑稽だったのは、女性が放った「ビジネスクラスの民度論」に他なりません。ビジネスクラスが一等車よりも500から600元高いというだけで、彼女は「ビジネスクラスに乗る人の方が民度が高く、一等車に乗る人間は底辺である」という結論を堂々と導き出したのです。お金による優越感が第一の蔑視だとすれば、権力への崇拝は第二の蔑視と言えます。女性は言い返せなくなった時、本能的に「交通警察の隊長」や「地元のボス」という肩書きを持ち出しました。中国社会の暗黙の了解として、何よりも「公権力」こそが一般人をひれ伏せさせる最強のカードだからです。「電話一本で痛い目に遭わせる」というあの言葉には、権力もコネもない者に対する赤裸々な蔑視が反映されています。

 ここで最も恐ろしいのは、この若い女性がおそらく真の富も権力も持っていないにもかかわらず、この「同胞を見下す」という言動をいとも簡単に、そして息をするように自然とやってのけているという点です。そしてトラブルに直面した際、本能的にその刃を抜き、自分と同じ一般市民に向けたのです。

 偶然にも、7月に話題になった別の動画は、これとは全く逆の路線でありながら、結果として同じような社会の闇を浮き彫りにしました。ある父親が妻と娘を連れて、一人あたり36元(約800円)の食べ放題の小さな火鍋屋へ行きました。父親は食事をしながら動画を撮り、娘に「美味しい?」と尋ねました。娘は「美味しい、海鮮もあるよ」と答えました。それを聞いた父親はとても満足そうに「このご飯は本当にお得だ」と笑いました。動画の中には口論も自己顕示もなく、ただ家族3人のごく普通の夕食の風景があるだけでした。

 しかし、コメント欄の穏やかな雰囲気は長くは続きませんでした。一部の人々が押し寄せ、タラバガニや高級海鮮の盛り合わせの写真をアップし、「これが海鮮だって?」と冷ややかな嘲笑を浴びせたのです。この家族は誰にも迷惑をかけていません。彼らの唯一の「罪」は、自分たちのささやかな満足感を動画にして人目に触れさせ、その食事がいくらだったのかを一目でわかるようにしてしまったことでした。

 高速鉄道の女性は、自分が冒犯されたと感じた後に、優越感を武器として相手に反撃しました。一方、火鍋を食べていた家族は、何もしていないのに、ただ普通の生活を見せただけで一方的に嘲笑されました。この2つの出来事を合わせて見ると、「人を見下す」という行為には、多くの場合、理由も衝突も全く必要ないことがわかります。ただ他人が自分よりつつましい生活をしているのを見ただけで、見下したいという衝動が自然と湧き上がってくるのです。

 このような「互いに見下し合う」という毒素は、すでに音もなく社会のあらゆる側面に浸透しているようです。競争が激しく、「内巻(ネイジュエン:出口のない過剰な競争)」に満ちた環境の中では、人々は他者より優位に立つことでしか、安心感や自らの価値を見出せなくなっているのかもしれません。ほんの少しの優位性があれば、それで十分なのかもしれません。学歴が少し高いこと。農村戸籍より都市戸籍であること。勤め先の見栄えが良いこと。あるいは単に、今日いつもより数千円多く払って、少しだけ高いご飯を食べたこと。そうした些細な優位性であっても、すぐに他者を見下す材料に変えられてしまうのです。

 誰もが必死に上へ這い上がろうとしていますが、それは往々にして「より美しい景色を見るため」ではなく、「下を見下ろすため」なのかもしれません。今日、ある人がビジネスクラスから一等車を見下し、タラバガニで36元の火鍋を嘲笑ったとしても、明日には別の誰かがプライベートジェットからそのビジネスクラスを見下し、真の特権階級が彼らを踏みつけることでしょう。このような互いに足を引っ張り合い、見下し合う循環の中に、絶対的な勝者は存在しません。高速で走る列車の車内で、一般市民が皆、相手を軽蔑し、恫喝するためのカードを必死に探している時、一体誰が誰を抑圧しているのでしょうか。その答えは、車内を覆う重苦しい空気の中に溶け込んで、すでに見えなくなっているのかもしれません。