中国貴州省遵義市に、「1時間0.6元(約13円)」を掲げるネットカフェがあります。ミネラルウォーターすら2元する時代に、この極端な「底値」はもはや単なる利用料金ではなく、格安の避難所への入場券です。ここには、路上生活者や自己破産した中年、失業中の若者たちが大量に集まり、汗と安タバコの臭いが染み付いた椅子の上で「生活」しています。彼らはネット上で「網吧(ワンバー)大神(ネカフェ廃人)」と呼ばれ、金も将来への希望もないどん底の状態を「掛壁(グアビー、行き倒れ寸前)」と自嘲しています。

 日本の「ネカフェ難民」が、昼間はワイシャツを着て働き、普通の生活の体裁を保とうと努力するのに対し、中国の「ネカフェ大神」は根本的に異なります。彼らは時代という巨大な歯車にすり潰され、現実の人生を自ら放棄してしまった人々です。主流社会との繋がりを絶ち、自らの肉体、時間、そしてわずかに残った自尊心のすべてを、虚構のネット世界へとおぼれるように没入させているのです。

 彼らがなぜ現実に帰ることを拒むのか。中国の独立系メディアの記録にある「77番の兄貴」こと靳愛兵(ジン・アイビン)のケースが、その心理的な軌跡を正確に描き出しています。

 名門大学の学生だった彼は、単位を落として深い「失敗の恥辱」に苛まれました。親の追及や就職の重圧から逃れるため、家族との連絡を絶ち、大学近くのネットカフェの「77番席」に潜り込みました。それから4年余り、彼は椅子で眠り、風呂にも入らず、物質的欲求を極限まで切り詰めました。生き延びる手段は、毎日5時間オンラインゲームで「打金(アイテムや通貨を稼いで売るリアルマネートレード)」を行い、月2000元(約4万円)の生活費を稼ぎ出すこと。残りの時間はすべてバーチャル世界に沈んでいました。

 今日の格安ネットカフェには、彼のように「ゲームの打金」で生計を立てる人々が何十万人といます。彼らにとってこれは娯楽ではなく、過酷なデジタル上の単純労働です。現実世界では給料をピンハネされ、何百社に応募しても落とされ、一生家も買えません。しかしゲームの中には「ダンジョンをクリアすれば必ず金貨が落ちる」という絶対的な公平性があり、それが精神のバランスを保つ唯一の命綱なのです。彼らが現実からドロップアウトするのは決して怠惰だからではなく、恥辱、恐怖、そして無力感が静かに結びついた結果です。

 この現象が大規模に爆発している背景には、マクロ経済の失速と社会構造の歪みがあります。2025年の中国の大卒者は1222万人に達し、16歳から24歳の都市部若年失業率は16.5%という高水準です。膨大な新規労働力が市場に押し寄せる一方で、彼らを待ち受けるのは外資の撤退や工場のリストラ、そしてフードデリバリーなどの「最後の受け皿」における極端な過当競争です。さらに、頼みの綱であった不動産市場も崩壊し、「一生懸命働けば家を買える」という確実性も打ち砕かれました。見合う仕事がなく挫折を重ねた若者たちは、最終的に生活水準を極限まで落とし、競争から完全に撤退する戦略を選ばざるを得ないのです。

 中国にも公的な保護施設は存在します。それでも彼らが施設に行かずネットカフェを選ぶのは、公式な制度と底辺のニーズとの間に巨大な亀裂があるからです。公的な施設は身分登録を求め、最終的に受給者を地元に送り返そうとします。挫折にまみれた彼らにとって、地元に帰ることは親族の冷ややかな目に晒されることを意味します。対照的に、格安ネットカフェは「制度化されていない停泊地」です。失敗の理由を説明する必要も、自分の惨めさを証明する必要もありません。エアコンとネットがあり、残酷な弱肉強食の社会から一時的に退出することを許してくれる空間なのです。

 また、ネットカフェは典型的な「デジタル空間への逃避」の場でもあります。モニターの明るさが昼夜の境をなくし、現実の失敗や借金の重圧は、ゲームの戦績やネット小説の爽快感によって一時的に棚上げされます。しかし、手軽にドーパミンが得られる生存コストの低い環境は、同時に「現実に戻る」ための推進力を奪い去る致命的な罠でもあります。

 こうして多くの人が虚ろな目をし、もがくことすら諦めていく中、遵義市の0.6元ネットカフェのオーナーが行ったライブ配信は、この絶望的な実態を世間に広く知らしめました。見知らぬネットユーザーから次々と食事の差し入れが届くというささやかな相互援助は、厳しい冬の中で素朴な民間の善意を伝えました。

 しかし、この美談は同時に芯から冷え切るような悲哀も感じさせます。国家は大規模なインフラ投資や体制維持にいとも簡単に巨額の資金を注ぎ込む一方で、自国をさまよう失業した若者たちに尊厳ある避難所一つ提供できません。公的な慈善団体は信用を失い、人々はネットカフェの個人事業主に直接支援を送る方を選びます。オーナーの善行は感動的ですが、本質的には行政の機能不全を民間人が極めて脆弱な形で代行しているに過ぎないのです。

 「ネカフェ大神」たちは薄暗い片隅で画面を見つめ、カップ麺をすすっています。街頭で抗議することも社会に報復することもなく、声なき方法で自らを社会から隔離し、自らの青春を消費しながら極限の忍耐力を示しています。しかし、人生をネットカフェの「わずかなお金でやり過ごす時間」に押し込めることは、決して社会の安定剤にはなりません。希望を見出せず、慢性的な自殺とも言える「社会からの退場」を選ぶ若者が増え続けるとき、その社会の根幹はすでに腐りきっています。

 遵義市の格安ネットカフェは、壮大な国家の物語の裏にある、ほころびだらけの現実を映し出す鏡です。もし体制がこの巨大な苦難を見て見ぬふりをするならば、今日ネットカフェで静かに倒れていった彼らは、明日には必ずや社会の激しい動乱を引き起こす深層の暗流となるでしょう。

(翻訳・吉原木子)