不死の妙薬を求めて航海に出る徐福(歌川国芳/パブリック・ドメイン)

 日本は、紀元前約1.6万年前~紀元前300年頃まで、長い縄文時代でした。縄文時代の人々は狩猟、採集、漁労を中心とした生活をし、縄文土器を使っていました。しかし、紀元前300年頃から、生活様式が大きく変わり、水稲農耕が始まり、金属器が使われ、定住化が進み、弥生時代に入りました。

 この劇的な変化は、大陸や朝鮮半島から渡来した人々と、彼らがもたらした新しい技術や文化によるところが大きかったと考えられています。

 渡来人とは、主に紀元前3世紀頃(弥生時代)から7世紀後半(飛鳥時代)にかけて、朝鮮半島や中国大陸から日本列島へ移住してきた人々のことを言います。彼らは水田稲作をはじめ、土器製作、土木、養蚕、機織り、漢字などの新しい文化や技術を日本に持ち込み、古代日本社会を一変させました。

 しかし、渡来人がなぜ日本へ移住をしてきたのか、政治的動乱や気候変動、日本の需要など複数の要因が絡み合っていると考えられていますが、その真相については依然として謎で、議論の余地があります。

 本文は、渡来人の代表的な人物、渡来の経緯、それぞれの役割を簡単に振り返り、渡来人がなぜ日本にやって来たのか、その真相を探ってみたいと思います

一、代表的な渡来人

1)渡来人の先駆者

 徐福(じょふく 生没年不詳)

 中国の史書『史記』には、紀元前200年頃、徐福は秦の始皇帝の命令を受け、「不老不死」の霊薬を求め、若い男女3000人と多くの百工(技術者)を連れて日本に渡来し、そのまま帰国しなかったと記されています。

 日本各地に「徐福が上陸した」「農耕や漁業、養蚕や捕鯨の技術を伝えた」という伝承が残っていて、徐福の子孫は「秦(はた)」、「羽田(はだ)」、「波多」といった姓を名乗って日本に定着し、日本の国の形成に貢献したという説も広く知られています。

 実は、徐福よりもずっと以前から、すでに大陸や朝鮮半島から稲作技術や金属器などを携えた人々が渡来していたと考えられています。 渡来人の渡来は、縄文時代後期から始まり、弥生時代に本格化し、古墳時代に最盛期を迎えたと思われます。

任熊『列仙酒牌』より
船に乗る徐福

2)4世紀〜5世紀の代表的な人物

 王仁(わに 生没年不詳)

 王仁は応神天皇の時代に百済から日本に渡来しました。王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡(らくろうぐん)出身の中国系学者とされ、漢高帝の末裔であるとされています。

 『古事記』と『日本書紀』によると、王仁は『論語』10巻、『千字文』1巻を携え、朝鮮半島百済から渡来し、応神天皇の皇子に学問を教え、また、漢字や儒教の基礎を伝えたと記されています。

 王仁は西文氏(かわちのふみうじ)の祖とされています。この一族は日本における漢字の普及や学術の発展において極めて重要な役割を果たしたのです。 

王仁(『前賢故実』より)(パブリック・ドメイン)

 阿知使主(あちのおみ 生没年不詳)

 阿知使主は、応神天皇時代の渡来人です。『日本書紀』や『続日本紀』の所伝によると、阿知使主は、朝鮮半島にあった漢の植民地である帯方郡(たいほうぐん)から17県の民を率いて渡来したとされています。

 阿知使主は、後漢の霊帝の曾孫(または七代孫)とされており、優れた外交手腕や文筆能力を持ち、呉(当時の中国南朝)へ赴いて縫製の技術者を連れ帰るなど、大陸の先進文化を日本に伝える役割を果たしたとされています。

 阿知使主は東文氏(やまとのあやうじ)の祖とされています。この一族は外交、財務、文筆などの分野で活躍し、訓読の発明など、日本の文字文化の基盤を築きました。

 弓月君(ゆづきのきみ、生没年不詳)

 応神天皇の時代に弓月君は朝鮮半島から120県の3〜4万人を率いて渡来したとされていて、『新撰姓氏録』では、秦の始皇帝の末裔と伝えられています。彼らは養蚕、機織り、製鉄、酒造などの高度な技術を持ち込み、日本の文化や技術の発展に絶大な貢献をしました。

 弓月君の子孫は秦氏として日本に定着しました。

弓月王木像(蜷川式胤模)(パブリック・ドメイン)

二、渡来人の規模と影響力の大きさ

 渡来人の正確な人数は不明ですが、弥生時代から古墳、飛鳥時代にかけて、朝鮮半島や中国大陸から人々が数世紀にわたり大規模に渡来し、総数で100万人規模に達していたという説もあり、現代日本人の祖先の一部を形成する重要な集団とされています。

1)『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』

 『新撰姓氏録』は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に編纂され、京及び畿内に居住する氏族の出身や姓を分類、記載した書物です。それによると、当時、その地域に計1182の氏族が住み、それらは「皇別」「神別」「諸蕃」の3つに分類され、「諸蕃(しょばん)」には、百済、高句麗、新羅、任那、漢(中国)からの渡来族326氏が記載されているそうです。

 これは当時の平安京および畿内に居住していた有力氏族のうち、渡来系氏族が約3分の1を占めていたことを示し、当時の日本社会における渡来人の影響力の強さを裏付けるものです。 

2)歴史人口学

 弥生時代の終わり頃、日本の人口は約60万人でしたが、8世紀(奈良時代)には約600〜700万人に急増したとされています。この期間の爆発的な人口増加は自然増だけでは説明が難しく、総計100万人規模、或いはそれ以上の渡来がなければ、この人口増は説明できないという「100万人渡来説」まで提唱されました。

 そして、最新のDNA解析研究では、古墳時代の日本列島において、人口の約25%が朝鮮半島や大陸からの移住者であった可能性が高いと示唆しており、更に、日本人の約8〜9割の祖先は弥生時代から古墳時代にかけて大陸から到来した「渡来人」に由来するという研究結果も出ています。

 渡来人の到来は、単なる技術の伝播ではなく、日本の社会、文化、人口構成を根本から変える非常に大きな要因だったと言えます。渡来人が日本列島に来ていなかったら、日本の文明のあり方や発展速度は大きく異なっていた可能性が高いと考えられます。

 しかし、渡来人の大規模な日本移住はなぜ起きたのでしょうか?

三、渡来人は「仏教の日本伝来」の基礎作り?

 歴史学や考古学においては、大規模な渡来人の移住は「環境の変化」や「戦乱」といった、自然発生的なものとして広く理解されています。しかし、有神論の視点に立てば、人類の歴史は偶然の積み重ねではなく、人知を超えた「神仏の摂理」や「大いなる計画(按排)」に基づいていると解釈されます。

 もし、渡来人の日本渡来は、神仏の「大いなる計画」の一部として按排されたものだとすれば、この大規模な移民ブームの目的は何なのでしょうか。

 ここでは、「渡来人の日本渡来は、仏教の日本伝来、聖徳太子の仏教による国づくりのために神の強い働きによって実現されたことだ」と大胆に推測したいと思います。

1)仏教伝来と渡来人の役割

 仏教の日本への伝来は、6世紀半ば(538年説または552年説)に百済から欽明天皇に仏像や経典が献上された仏教公伝が始まりです。仏教を日本に広く根付かせるのに、渡来人がもたらした技術や知識が極めて重要な役割を果たしました。

 仏教の教えは経典に記されており、それらを学び、伝えるためには、文字が必須でした。渡来人によってもたらされた漢字は、仏教が日本に定着し、発展するための不可欠な基盤となりました。

 寺院や仏像を製造するために必要な、それまでの日本にはなかった瓦を焼く技術や、巨大な木造建築を支える礎石の技術、仏像を鋳造するための冶金技術は、渡来人がもたらしたものです。

 そして、仏教公伝以前から、個人的な信仰として、渡来人はすでに仏教を日本に持ち込んでいて、彼らが各地で形成したコミュニティは、仏教が急速に全国へ広がる土壌にもなりました。

 渡来人の渡来は、仏教を日本が受け入れるために、物理的、文化的の両面の基盤を用意してくれたと言えるでしょう。

2) 聖徳太子と仏教による国づくり

 推古天皇の時代には、仏教が本格的に広まりました。摂政の聖徳太子は蘇我馬子と協力し、仏教を奨励して四天王寺や法隆寺を建立し、十七条憲法にも仏教の教えを取り入れるなど、仏教を軸とした国家建設を進めました。

 そして、聖徳太子自身も深く仏教に帰依し、その興隆に心血を注ぎました。「仏光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」という言葉に象徴されるように、太子の仏教普及は、日本初の本格的な仏教文化である飛鳥文化として結実しました。この精神は、その後の日本文化の礎を築く大きな源流となったのです。

聖徳太子二王子像(パブリック・ドメイン)

 数世紀にわたって古代日本に渡来した人々がもたらした高度な技術や文化は、日本の国家形成と仏教興隆に、決定的な役割を果たしました。このような歴史の展開は、人間の努力や意図とは別に、「人知れぬところで、天の意志は決まっている」という計り知れない力の存在を感じずにはいられません。

  渡来人の日本渡来は、単なる歴史的事実ではなく、「天意」が働いた壮大なプロジェクトとして捉え直すと、神仏に対する敬畏の念が深まると共に、私たちが享受している日本の仏教文化の有り難さや尊さを、より一層感じられるのではないでしょうか。

(文・一心)