歴史書や歴史映画の中で、皆さんは様々な皇帝の称号を目にしたことがあるでしょう。「漢文帝」「魏武帝」のように「帝」と呼ばれる場合もあれば、「唐の太宗」「宋の太祖」のように「宗」や「祖」と称される場合もあります。また、明朝の「万暦帝」「天啓帝」のように、年号で皇帝を呼ぶ場合も見られます。では、なぜ古代の皇帝は、ある時は「帝」と呼ばれ、ある時は「宗」と呼ばれ、また別の時には年号で呼ばれることがあるのでしょうか?
実は、皇帝の称号は単なる尊称ではなく、一種の戒めであり、また評価でもあります。後世の人々が記憶するのは皇帝の本名ではなく、彼らの「号」であることがほとんどです。これらの称号には、諡号(しごう)、廟号(びょうごう)、年号(ねんごう)があります。いずれも歴史における称号であると同時に、皇帝生涯の功績や過失に対する評価を反映したものでもあります。
では、これらの称号はどのように決められたのでしょうか?今回は、それぞれについて少し詳しく見ていきましょう。
諡号(しごう)
諡号とは、古代において、皇帝や諸侯、大臣が亡くなった後、朝廷がその生前の行いを総合的に評価し、授けた称号です。大きく分けると、次の三つの種類があります。
(一)美諡(びし)
「天下を治める才能」や「徳が高く人格に優れる」「学問に勤勉である」など、優れた才能や品性を讃える諡号です。代表例として、「漢文帝」が挙げられます。
(二)平諡(へいし)
中立で、同情的な意味合いが込められた諡号です。例えば、「愍(びん)」には「国政の中で苦難に遭った」、「懐」には「慈悲深いが早世した」など、才能がありながら不運に見舞われた君主への同情を表します。
(三)悪諡(あくし)
暴虐や悪徳を批判する諡号で、周の厲王の「厲」や隋の煬帝の「煬(よう)」、「荒」「幽」などがこれに当たります。主に亡国の君主に多く見られる諡号です。
諡号の本来の意味は、皇帝の行いを戒めるためのものであり、同時に後世の皇帝に対して、自らの一言一行が死後に歴史的評価を受けることを教え諭す役割を果たしています。
廟号(びょうごう)
皇帝の死後、その位牌は太廟に安置され、後代の子孫によって太廟で祭祀する際に用いられる専用の称号を追号されます。これが廟号です。例えば、隋の高祖や唐の太宗はいずれも廟号で呼ばれていました。
最初、諡号は一、二文字の簡潔なものでしたが、時代が下がるにつれて文字数が次第に長くなりました。さらに、ほとんどが美諡となったため、「評価」という本来の役割が次第に失っていきました。その結果、廟号が徐々に諡号に取って代わり、人物とその評価を最終的に定める称号として定着しました。代表例としては、「太祖」「高祖」「太宗」などが挙げられます。
年号(ねんごう)
年号とは、皇帝が在位している間に年を数えるための称号です。大きな出来事が起こると年号を変えることも多く、そのため、一人の皇帝が複数の年号を持つこともありました。例えば、唐の高宗・李治は、在位中には十四もの年号を用いました。年号の制度は漢の武帝から始まり、彼は「建元」「元光」「元朔」「元狩」などの年号を初めて定めました。それ以後、年号は正式な紀年法になりました。
王朝の交代に伴い、皇帝の称号も絶えず変化してきました。唐以前の皇帝は、主に「諡号+帝」という形で呼ばれていましたが、唐から元の間において、皇帝を直接廟号で呼ぶことが一般的となりました。明以降は、皇帝の称呼として年号が用いられることが多くなりました。
古来より、皇帝の称号は単なる尊称のみならず、歴史的評価そのものでもありました。諡号や、廟号、年号と一見複雑に思えるこれらの名称には、実は王朝の盛衰、君王の功過(こうか)、さらに後世による人格や政治に対する評価が刻み込まれていました。今日、私たちは「漢文帝」「唐太宗」「万暦帝」などの名称を読む時、そこに見ているのは単なる呼び名ではなく、まさにその中に凝縮された背後の歴史や文化なのです。
(文・梅媛/翻訳・心静)

