モンゴルの街頭で、中国人の男性が五星紅旗を高く掲げ、「この土地は古来より中国のものだ」と主張しました。すると数分後、現地の人々に取り囲まれ、暴行を受け、前歯を7本失ったと伝えられています。さらに皮肉なことに、事後に中国大使館へ支援を求めたものの、「なぜ来たのですか」と冷たく問い返され、実質的な対応は得られなかったとされています。
この出来事は一見すると極端な例にも見えますが、決して例外的なものではありません。近年、海外の公共空間で国旗を振り、国歌を歌い、その様子を動画に撮影して発信する中国人ネットユーザーの行動が、各地で確認されています。当事者たちはこれを「愛国的な表現」と位置づけ、SNSを通じて広く拡散してきましたが、そのたびに賛否を呼んできました。
こうした行動は、多くの場合、相手国の公共空間で行われます。参加者は民族的な誇りの表明や、「祖国のために声を上げている」と説明しますが、受け取る側の社会では、その意図が必ずしも共有されるわけではありません。招かれていない場での過度な自己主張は、公共秩序や社会的合意への配慮を欠いた行為と受け止められやすく、反感や緊張を生むこともあります。
こうした事例の中で、日本はたびたび舞台として挙げられています。日本社会では秩序意識が比較的強く、小規模な挑発的行動に対しても、市民が感情的に反応せず、距離を置いて見守るケースが多く見られます。直接的な衝突に発展しにくいこの環境が、一部の人々に「問題になりにくい行為」という誤った認識を与えている側面も否定できません。
その結果、海外の象徴的な場所で国旗を掲げ、撮影した映像を発信する行為が、ある種の再現可能な表現として扱われるようになりました。国内のネット空間では注目を集めやすい一方で、現地社会では困惑や違和感を招くことが多く、その影響は一つの動画にとどまりません。
同様の議論は、東京の街頭でも起きています。中国のインフルエンサーグループが文化発信を名目に、新宿や渋谷といった繁華街の横断歩道を無断で占拠し、パフォーマンスを行った事例がありました。信号が赤に変わる直前に車道へ入り、通行人の妨げとなる場面も見られ、交通事故の危険性が指摘されました。これらの映像は日本のSNS上で急速に拡散され、公共秩序を乱す行為として批判を集めました。
注目すべき点として、こうした行動に対し、中国国内からも否定的な声が少なくありませんでした。「海外で恥をさらしている」といった批判が寄せられる一方で、当事者側は反省を示すことなく、批判する日本のネットユーザーを攻撃する発言を繰り返しました。さらに、極端な報復発言が拡散されたことで事態は悪化し、日本の警察当局が調査に乗り出す事態にまで発展しました。
では、なぜこのような行動が繰り返されるのでしょうか。結果から見ると、そこには強い商業的動機が存在します。特定の国や象徴的な場所で国旗を掲げ、刺激的な語り口で発信することで、国内の一部視聴者の感情を強く揺さぶり、高い再生数や収益につなげる構造が形成されています。
こうした発信が主に訴求しているのは、海外経験が少なく、外の社会に触れる機会が限られている層だと考えられます。最新の公式統計によれば、2025年時点で中国で有効な一般旅券を保有する人は約1億6,000万人とされ、全人口の1割強にとどまっています。海外での行動を間接的に目にした視聴者が、強い感情移入を示し、動画の拡散を後押しする構図が生まれています。
さらに観察すると、こうした愛国的なパフォーマンスには明確な選択性が見られます。社会秩序が整い、市民の反応が比較的穏やかな国では行われやすい一方で、強い反発が予想される地域は意図的に避けられています。モンゴルでの事件が示すように、挑発が許容されない環境では、即座に現実的な代償を伴うことになります。
この点から見えてくるのは、信念というよりも計算に基づいた行動です。秩序ある社会の抑制的な対応に依存しながら、その抑制そのものを利用して注目を集める構図の中で重視されているのは、国家の尊厳ではなく、話題性や注目度であることは否定できません。
長期的に見た場合、こうした行動が国のイメージ向上につながるかどうかは、慎重に見極める必要があります。短期的には一部の視聴者に高揚感を与えるかもしれませんが、現地社会では無秩序や不安要素として記憶される可能性が高く、結果として一般の旅行者全体への警戒感を強めることにもなり得ます。
国際社会の日常的な交流において、国旗やスローガンが自動的に理解や尊重につながるわけではありません。多くの場合、評価されるのは個々人の振る舞いであり、公共空間への配慮や、異なる文化との距離感です。海外で繰り返されるこれらの行動が何を残しているのかについては、冷静な検討が求められています。
(翻訳・吉原木子)
