タピオカミルクティー――甘くて手軽で、誰もが一度は口にしたことのあるこの飲み物が、いまや現代の中国社会を映し出す“鏡”となっています。
最近、中国のインターネット上では、2件のタピオカミルクティーにまつわる事件が大きな話題となりました。ひとつは広州の街頭で起きた「ミルクティー争奪戦」、もうひとつは浙江省台州市で発生した家庭の悲劇です。
一見無関係に見えるこの2件の出来事は、現代中国社会の深層に潜む問題――一部の大人たちの「精神的未熟さ」、責任転嫁の文化、家庭教育の歪み、そして社会的責任意識の希薄化――を浮き彫りにしています。
最初の事件は2024年11月中旬、広州市内の「CoCo都可」ミルクティー店で起きました。店員の張さんによると、当時、数杯のテイクアウト用ミルクティーを作り終え、配達員が取りに来るのを待っていたといいます。その時、10歳ほどの少年が突然店に走り込み、そのうちの1杯を掴んで走り去ろうとしました。張さんはすぐに追いかけ、少年を止めて返却または弁償を求めました。すると、少年の母親、30代の女性が現れ、謝罪するどころか逆上し、「子どもを脅かした」と店員を責め、暴力をふるい始めたのです。
女性は店員の腰を蹴り、髪をつかんで引き倒すなど、激しい暴行を加えました。止めに入った警備員の腕にも噛みつき、現場は騒然となりました。女性は子どもを連れて逃げようとしましたが、通行人と警備員に取り押さえられました。取り乱した彼女はバッグから小型ナイフを取り出し、「誰が止めるのか!」と叫びながら振り回したといいます。子どもたちはその様子を冷静に見つめ、恐れや反省の表情は見られませんでした。最終的に警察が駆けつけ、女性は現行犯逮捕、店員は怪我を負って病院に搬送されました。事件は暴行や器物損壊の疑いとして立件され、この女性は行政拘留や賠償命令を受ける可能性があると報じられています。
事件の映像がネット上に出回ると、たちまち炎上しました。SNSでは「子どもに問題があると思ったら、その家庭を見ればわかる。子どもの“症状”は一番軽い」という言葉が広く拡散し、暴力的に子どもをかばう親の姿勢に怒りの声が相次ぎました。多くの人々は、この母親の行為が子どもを守るどころか、むしろ子どもの未来を壊していると指摘しました。
本来、子どもの過ちを教育の機会にできたはずが、母親は暴力によってそれを覆い隠し、「間違っても謝る必要はない。強ければ正しい」という危険なメッセージを与えてしまったのです。子どもの冷めた表情は、まさにその教育の結果を象徴しているかのようでした。
二つ目の事件は、2025年10月19日に浙江省臨海市杜橋鎮の宝龍広場で起きた悲劇です。4歳にも満たない男児が遊び場でタピオカミルクティーを飲んでいる最中、喉にタピオカが詰まり命を落としました。
父親の李さんは、息子の小さな願いを叶えようと、ミルクティー店「古茗(ぐみょう)」で一杯を購入し、妻の友人に受け取りを頼んでいました。その後、李さんは子どもを連れてショッピングモールの3階にあるトランポリン施設へ入場。男児はミルクティーを片手に楽しそうに跳ね回っていましたが、悲劇はその数分後に起こりました。
タピオカの粒が喉に逆流して詰まり、息ができなくなったのです。監視カメラの映像によると、男児が苦しみながら咳き込んでいる間、母親はスマートフォンを見続けており、異変に気づくまで約10秒。現場には応急処置を行える人もおらず、男児はすぐに意識を失いました。救急車で搬送され、1時間以上にわたり蘇生が試みられましたが、脳の損傷は回復不能と判断され、死亡が確認されました。司法解剖の結果、気管内には3粒のタピオカが固まって詰まっていたといいます。
しかし、その後の父親の行動はさらに世間を驚かせました。彼はショッピングモールの入口に横断幕を掲げ、「店はタピオカが子どもに危険だと警告しなかった」「遊び場は飲み物の持ち込みを止めなかった」「モールは救助が遅れた」と複数の関係者を非難し、さらにはミルクティーを受け取った妻の友人にも責任を押し付けようとしました。
これに対し、ミルクティー店は「パッケージに注意書きを明記している」と反論し、遊び場側は「飲食禁止の規則はあったが徹底できなかった」と説明。モール側は「AEDなどの救命装置は設置されていたが、家族が使用を求めなかった」と主張しました。事件は法的な争いに発展する可能性もありましたが、世論の大半は父親に対して厳しい目を向けました。――監護者としての責任を最も問われるべき人物が、それを完全に無視していたからです。
短期間のうちに立て続けに起きたこの二つの「ミルクティー事件」は、単なる偶然ではなく、共通する心理構造を映し出しています。
それは――精神的に成熟しきれない大人たちの姿、そして責任感の欠如です。
広州の母親も、台州の父親も、現実が自分の期待と衝突した瞬間、反省ではなく「攻撃」と「転嫁」を選びました。彼らは「子どものため」「自分の正義のため」と言いながら、実際には自らの恐れと罪悪感を覆い隠すために極端な行動に出ているのです。
心理学者の武志紅(ウー・ジーホン)氏は、「巨嬰(きょえい)心理」という現象を提唱しています。
これは、身体的には大人でありながら、心理的には幼児のまま成長していない状態を指します。こうした人々は自己中心的で、否定や失敗を受け入れることができず、常に世界が自分の思い通りに動くことを望みます。思い通りにならないと、感情的に爆発したり、他人を攻撃したりする――まさに広州事件の母親のように。
彼女は「自分の子どもが悪いことをした」という現実を認められず、他人の指摘を「侮辱」と受け取り、怒りで自尊心を守ろうとしました。その姿は、おもちゃを取られて泣き叫び、相手を叩く子どものようです。ただ違うのは、彼女が大人の体と力を持ち、破壊力がはるかに大きいということです。
台州の父親の行動にも、同じような巨嬰的心理が見られます。彼は子どもの死を自らの過失とは考えず、店、遊び場、モール、友人と、あらゆる他者に責任を押し付けました。心理的に未熟な大人は、「責任」という言葉を自尊を脅かすものと感じ、本能的にそれを拒否します。「自分は間違っていない」という幻想を守るために、他人を悪者にするのです。これは一種の防衛反応であり、感情の逃避でもあります。言い換えれば、彼は「正義の抗議者」を演じながら、実際には「子どもじみた被害者意識」にとらわれていたのです。こうした人々は失敗しても反省せず、常に誰かを責め続ける――いわば“被害者ループ”に陥ります。
この巨嬰心理の広がりは、現代の家庭教育とも深く関係しています。中国では「愛情」の名のもとに、子どものあらゆる欲求を満たす親が少なくありません。その結果、「我慢を知らず、責任を取らない」子どもが増えています。親は「子どもに苦労させたくない」と考えますが、その思いやりが過剰になると、子どもは世界が自分中心に回ると信じるようになります。やがて彼らが大人になっても、心理的には幼児のまま。広州の母親も台州の父親も、こうした教育の被害者であり、同時にその再生産者でもあります。
責任転嫁の風潮は、家庭を越えて社会全体にも広がっています。かつて中国では「責任を取ること」は美徳とされていましたが、現代では「自己防衛」が優先される傾向が強まっています。問題が起きると、「自分は悪くない」「他人が悪い」と考える。広州事件では母親が暴力で責任を回避し、台州事件では父親が法的主張で責任を回避しました。いずれも、自らの行為を直視しない点で共通しています。家庭の中で親が責任を逃げる姿を見せれば、子どももまた同じ行動を学びます。
これらの事件は、家庭教育の深刻な危機をも示しています。多くの家庭では、子どもに「どう勝つか」「どう競うか」を教える一方で、「どう人と関わるか」「どう責任を取るか」という基本を教えていません。親は子どもを守るあまり、あらゆる欲望を満たしてしまう。その結果、「ずる賢さ」や「要領の良さ」は身についても、思いやりや規範意識は育ちません。こうして育った子どもは、社会に出ても他人を尊重せず、協力よりも非難を選びます。家庭教育の欠落が、社会全体の不安と分断を生み出しているのです。
広州の事件では、母親の暴力的な行動と子どもの冷めた視線が、「親の姿はそのまま子どもの姿になる」ことを証明しました。台州の事件では、親の甘やかしと責任逃れが、最も悲しい形で結果に表れました。教育の本質は「感情の発散」ではなく、「行動の指針」を示すことにあります。教育学者の言葉を借りれば、「子どもの道徳心は、親が自分の過ちにどう向き合うかで決まる」。親が失敗の中で謝罪や反省を示せば、子どももそれを学びます。逆に、親が怒りや暴力で問題を解決しようとすれば、子どもは「声の大きい方が正しい」と思い込むのです。
成長とは、身体が大きくなることではなく、心が成熟することです。自分の行動に責任を持てる人こそ、本当の意味での「大人」です。タピオカミルクティーをめぐる二つの事件は、単なるニュースではなく、社会の鏡です。
この二つの出来事は、現代社会のあり方を問いかけています。私たちがこの鏡の中に何を見るのか――それが、未来の社会を決めるのです。
(翻訳・吉原木子)
