1989年「六四天安門事件」を支持したことで逮捕された大学生の顧凱(グー・カイ)は、上海の拘置所で死刑囚が採血されて臓器移植用の型合わせをされる場面を自ら目撃し、その後、臓器が強制的に摘出されたことを知りました。彼は恐怖と家族への懸念から、この真実を長年胸の奥に封じ込めてきました。今年3月、アメリカで「六四記念館」を訪れた際、ついに勇気を奮い起こして大紀元のインタビューに応じ、長く抑え込んできた体験を公にしました。
上海拘置所の死刑囚と「公然の秘密」
1989年、顧凱は上海師範大学の3年生でした。「六四天安門事件」を支持する活動に参加したため、中国当局に逮捕され、上海第一看守所に収監されました。彼は3階321号房に収容され、約7.5畳(約12平方メートル)の空間に15人の囚人が押し込められていました。
1989年11月8日、1人の若い死刑囚が同じ牢屋に連行されてきました。その人物は葛燕平(グー・イェンピン)、1964年生まれで、上海宝鋼集団有限公司に勤務していましたが、故意殺人の罪で逮捕されていました。
1990年1月、看守所の医師が牢屋の小窓を開け、葛燕平に腕を出させ、静脈血を2本分採取しました。顧凱はこう語ります。「皆が知っていた。採血されると言うことは臓器適合検査を行うという意味で、これは公然の秘密だった」
1990年2月のある日、看守が葛燕平に荷物をまとめて裁判所に行くよう命じました。しかし、彼はその後二度と戻ってくることはありませんでした。本人も生きて帰れないことを悟っており、出発前に住所を顧凱に伝え、「出所したら両親を訪ねてほしい」と託しました。
長年にわたり、顧凱はこの件について沈黙を守り、心の中で強い重圧を抱えていました。彼は大紀元の取材でこう語っています。「当時、私は1年間拘束された後にようやく釈放された。家族や両親への配慮、その他さまざまな理由から、本当に怖くて口に出せなかった」
2025年3月、彼はアメリカで「六四記念館」を訪れ、「六四事件36周年記念会」に参加しました。他の被害者たちと交流する中で強い自責の念に駆られ、「私は突然、自分があまりに臆病だったと感じた」といいます。彼は当時、牢獄で目撃した暗黒の真相をついに暴露する決意を固めたのです。
別の目撃者が証言
インタビューに応じたもう一人の民主化活動家の楊巍(ヤン・ウェイ)も、同様の証言を提供しました。彼もまたこの「公然の秘密」を知っていたのです。
楊巍によれば、彼は1989年「六四天安門事件」後に逮捕され、同年7月15日に収監されました。最初は上海市の収容所に入れられ、その後一年余りして別の場所に移され、1991年2月に釈放されました。
楊巍は、多くの死刑囚が足かせや鉄の手錠を付けられて収監され、その身分は一目で分かる状態だったと振り返ります。医師は頻繁に死刑囚から採血を行っており、楊巍が理由を尋ねると、医師は「病気の検査だ」とごまかしたといいます。
楊巍は「彼らには検査が必要な病気などなかった。間違いなく血液型の適合を調べるためだ」と心の中で確信していました。
この体験は、顧凱(グー・カイ)の証言を側面から裏付けるものでした。拘置所などの収容施設での採血は、臓器摘出の前段階と見なされていたのです。
死刑囚の父が遺品と臓器摘出写真を提示
顧凱は1990年8月に釈放されると、上海市在住の葛燕平の両親を訪ねました。葛燕平の父・葛益富(グー・イーフー)は退役軍人で、上海有限電廠の保衛科に勤務する中国共産党員でした。
葛益富は顧凱に一束の資料と写真を見せました。その中には息子の遺書、遺品、そして裁判所内部の処刑記録から撮影された写真が含まれていました。写真は五枚あり、一枚は葛燕平が跪いて処刑を待つ場面、一枚は銃弾が頭部に命中した瞬間、そして続く数枚は白衣の人物たちが臓器を摘出する場面を映していました。
顧凱はこう語ります。「私は彼が跪き、銃口を受け入れる準備をする姿を見た。その後、銃弾が頭に命中した。そして葛益富は私に息子の遺書や遺品を見せ、さらに死刑囚処刑の記録写真も見せてくれた。そこには白衣を着た人々が胸腔を開いて臓器を取り出す様子が写っていた」
顧凱は「時間は経ったが、写真の衝撃はあまりに強烈で、私の脳裏に深く焼き付いている。忘れることができない」と述べました。彼が特に強調したのは「銃弾を受けた直後、本人はまだ完全には死亡していなかった」ことであり、その状態で即座に臓器が摘出されるという残酷な光景は、「全身が寒気に襲われるほどだった」と語りました。
葛益富は深い悲しみに沈みながらも抗うことはできず、こう嘆きました。「息子は人を殺したのだから死刑は当然だ。しかし、なぜ死体をこんなふうにまでされなければならないのか」
強制的な臓器摘出の「制度化」された黒幕
顧凱は、死刑囚の臓器摘出は当時すでに秘密ではなかったと強調し、「皆が知っていた。すべての死刑囚の臓器は『政府に貢献する』ことになっていた」と述べました。こうした行為は次第に制度化され、さらに多くの人々へと対象が拡大していきました。
彼は例として、上海公安局が設置した「安康医院」を挙げました。名目上は精神病院でしたが、実際には身寄りのない者、浮浪者、身元不明者、政治犯を収容する施設だったのです。この病院の隣には臓器移植のための施設があり、摘出と移植の「操作」が容易に行えるようになっていました。
顧凱は「このようなことが現実に起きていたのは本当に悲しい。中国に民主化が訪れるその日まで、この黒幕は暴かれることはないだろう」と嘆きました。
法輪功学習者も犠牲に
顧凱はまた、法輪功学習者が受けた迫害についても語りました。「すべての法輪功学習者は信仰を放棄しなければ精神病院に送られた。そして多くの人が理由も分からないまま姿を消した。中には刑務所で自殺した、あるいは死亡したとされた人もいるが、それは誰もが知っていることだ。上海では、人が死んだ場合、遺族に渡されるのは骨壷だけで、遺体を見ることはできない。これは国家レベルの最高機密とされており、断片的な情報からしか知ることができないが、その真実性は疑いようがない」
顧凱によれば、中国で臓器移植が始まった当初は、死刑囚や身寄りのない者、事故死した患者が臓器の供給源でした。しかし後に対象は拡大していき、その実態は2024年に公開されたドキュメンタリー映画『国有器官(State Organs)』でも明らかにされています。
そして今年の「9月3日の軍事パレード」生中継では、思わぬ場面が映し出されました。習近平とウラジーミル・プーチンが雑談する様子が映り込み、「臓器移植」や「不老長寿」の話題に触れたのです。習近平は思わず「人類は今世紀中に150歳まで生きられるようになるかもしれない」と口にしました。中国共産党が長年にわたり国際社会から強制的な臓器摘出の罪で非難されてきた中、この発言は流出直後から世論の強い非難を招きました。
顧凱は「民主も選挙も言論の自由もない国では、どんな悪事でも起こり得る。中国に民主化が訪れるその日まで、この黒幕が暴かれることはない」と語ります。
(翻訳・藍彧)
