
一、「禅」と「茶」をもたらした栄西
栄西(1141-1215年)は、鎌倉時代の僧侶です。
栄西は宋から臨済宗の禅を日本に伝え、日本臨済宗の開祖として「禅の祖」とされています。また、日本に茶の種を持ち帰り、その栽培と喫茶の習慣を広めたことから「茶祖」とも称されています。
栄西は、生涯で2度にわたって宋へ渡航しました。
二度目の入宋では、彼は厳しい修行を経て、禅の正当な継承者として認められました。帰国後、既存の仏教勢力からの弾圧を乗り越えながらも、栄西は臨済宗を広め、禅宗を日本に確立させ、また、茶は禅の修行と精神修養に役立つことを説き、日本における喫茶の習慣を広めました。
禅宗思想の確立と茶文化の普及は、後の日本文化の骨格形成に大きく寄与しました。
茶は当初、禅の修行を助ける目的で広められましたが、その後、禅の精神性を取り込んだ「わび茶」へと発展し、千利休によって大成され、茶道という日本独自の文化として確立されました。
この「禅と茶」の融合は、単に茶道に留まらず、華道、武道、俳句、建築など……多岐にわたる日本の伝統文化全体に影響を与え、日本人の独特な精神性や美意識を形成する源流の一つとなったと考えられています。
「日本文化の芯に禅がある」と言われるほど、日本文化に禅の心が深く根差しています。そのルーツを辿ると、栄西がもたらした「禅」と「茶」の功績は非常に大きいものだったと言えるでしょう。
二、幼少期と出家
保延7年(1141年)、栄西は吉備津神社の神職の家に生まれ、千寿丸と名付けられました。
千寿丸は幼い頃から優秀で、8歳の時すでに難しい仏教の本を読んでいたと伝えられています。神官の子が仏教書を読むのは不思議に感じるかも知れませんが、神仏習合の時代では、それほど特異なことではなかったようです。
千寿丸は14歳の時に比叡山の延暦寺で出家し、天台宗の修行僧となり、「栄西」を名乗るようになります。ちなみに、栄西は「えいさい」とも「ようさい」とも呼ばれ、どちらも正しい呼び方とのことです。
栄西は比叡山で天台宗を修めましたが、仏法よりも地位を求める僧が多い延暦寺に落胆して下山したと言われています。「このままでは日本の天台宗がだめになる」、「中国の天台山に上って仏教の根本を学びたい」、「日本の天台宗を立て直したい」と栄西は強く願ったのです。
三、二度の宋への渡航
仁安3年(1168年)、28歳の栄西は一回目の入宋を果たします。
ところが栄西が宋の現地で目の当たりにしたのは禅宗の隆盛でした。この様子に衝撃を受けた栄西は、自分に禅の素地が足りないと思ったのか、半年足らずで天台の経典60巻を持って帰国しました。
文治3年(1187年)、47歳になった栄西は再び渡宋します。
今度は、仏教の発祥地である天竺を目指そうとしました。しかし、西域地方の情勢が不安定で、国境が閉鎖されていたため、やむなく帰路に着きますが、彼の乗った船が途中で暴風雨に遭い、再び宋に漂着したのでした。
「これはお釈迦様が自分を宋の地に留められ、学ぶことを望んでおられるのではないか」と悟ったのか、栄西は再び天台山に上り、万年寺で臨済宗の虚庵懐敞(こあんえしょう)に師事することになりました。こうして、栄西は足掛け5年、虚庵のもとで修行し、臨済禅を学びました。
建久2年(1191年)、虚庵より臨済宗の印可と法衣を授けられた栄西は帰国しました。51歳でした。
四、禅の思想を伝える
栄西は宋から帰国して臨済宗を日本に伝え、開宗しました。当時の日本は平家から源氏へと政権が移行する大転換期にあたり、あらゆる価値観が混迷をきわめていた時期でした。

建久5年(1194年)に、既存の仏教勢力である天台宗や真言宗が、新興の禅宗を排除しようとする動きの中で、朝廷に働きかけて禅宗の活動を禁止する宣旨が出され、栄西の京都での活動が制限されました。
しかし、旧勢力の弾圧に屈することなく、栄西は九州を拠点に、精力的な布教活動を展開し、勢力を徐々に拡大して行きました。そして建久6年(1195年)に、博多で日本最初の禅寺である聖福寺を建立したのです。
建久9年(1198年)、栄西は『興禅護国論』を著し、旧仏教や朝廷からの疑問や論難に答え、禅宗を広める必要性を説きました。その後、彼は九州を離れ、鎌倉に上って新政権に助力を得ようと試みます。
正治2年(1200年)、栄西は北条政子が建立した寿福寺の初代住職に招聘され、以後、幕府の手厚い保護を受けました。
そして建仁2年(1202年)、将軍頼家から土地の寄進を受け、栄西は京都で建仁寺を建立し、念願だった京都での布教を開始するに至り、75歳で亡くなるまで禅の普及に努めたのでした。
五、茶文化を広める
栄西は宋から持ち帰った茶の実の栽培を奨励し、喫茶の普及に尽力しました。
茶の栽培が推進された主な理由は、茶の健康効果、薬効、そして特に禅宗の修行において、眠気覚ましや集中力を高めるのに有効であったためです。禅寺で行われる「茶礼」という儀式は、茶の湯の原型と言われています。
承元5年(1211年)、71歳の栄西は「喫茶養生記」を著しました。この書物は上下二巻からなり、茶の薬効から栽培適地、製法まで、細かく記されており、日本最古の茶書だと言われています。
また、鎌倉幕府の三代将軍実朝が体調不良に悩まされていた時、栄西がお茶を勧め、たちまち健康を回復したという逸話なども、歴史書の中に残されています。
栄西がもたらした茶は、その後、日本独自の文化の茶道として花開くこととなります。
茶道は、当初、闘茶や豪華な茶器の鑑賞、茶会など、娯楽要素が強調された形でしたが、その後、村田珠光が禅の思想を導入したことで、「わび茶」へと発展し、さらに、武野紹鴎を経て、千利休によって大成され、現在の形となったのです。
最後に
実は栄西より前の時代から、禅も茶も日本に伝来していました。奈良時代には中国から茶がもたらされ、平安時代には嵯峨天皇に茶が献上されたという記録が残っていますが、一般に広まることはありませんでした。また、禅に関しても、飛鳥時代の道昭、奈良時代に来日した道璿(どうせん)、平安時代の最澄も日本に禅の教えを伝えていましたが、宗派としての体系は出来ていませんでした。
しかし、栄西は再び中国から茶の製法や喫茶法を伝え、日本に禅宗を確立させ、さらに、喫茶と禅を融合する道筋を開拓しました。そして、日本の禅文化の礎を築き、日本文化の形成に大きな功績を残したのです。
(文・一心)
