『歩輦図(ほれんず、輿の図)』とは、唐王朝期の画家・閻立本(601年〜673年)が描いた代表作の一つとされています。その内容は、貞観十四年(紀元640年)、吐蕃王国のツェンポ(最高指導者)であるソンツェン・ガンポが派遣した使者のガル・トンツェンが唐の都・長安に赴き、唐の王女・文成公主をソンツェン・ガンポの妃として迎えたいと、唐の太宗に謁見している場面が描かれています。現在、北京故宮博物院に収蔵されている『歩輦図』は絹の上で顔料を使って描かれた宋王朝期の模写本で、縦が38.5cm、横が129.6cmになり、最も原作に近い模写本と言われます。

『歩輦図』のメインになる唐の太宗のほか、真ん中のガル・トンツェン、その後ろの通訳者や大臣たちも描かれています。太宗は端正な顔立ちで、目つきが深く、荘重な表情を見せ、その明君としての風範と威厳が閻立本の筆運びで如実に描かれました。この図は背景を省略しており、構造上は右から左へ、密接な配置から徐々に疎らな配置へと移行し、重点が明確に強調されています。
絵画芸術の角度から見ると、閻立本は純熟した表現方法を存分に発揮しています。衣服と器の輪郭線は滑らかでありながら、時折堅靭さを帯びており、端も唐突でなく自然な終わり方にしています。人物の生き生きとした表情と人物同士の表情の対比は、当時の情景を細部まで伝えています。そして人物の靴の皺など、作品の一部にはぼかし技法が施されており、立体感を増しています。作品全体の色彩は濃く純粋で、広範囲に及ぶ赤と緑の色彩が交互に配置され、リズム感と鮮明な視覚効果に富んでいます。
チベット史上有名な指導者、ソンツェン・ガンポ。彼はチベットを統一し、吐蕃王国を築き上げました。文成公主がその妃になるのは、吐蕃王国と唐王朝の統治者の間で初めて正式な連携でした。以来、吐蕃と唐は同盟国となり、ソンツェン・ガンポの治下では平和な日々が続きました。
実は、ソンツェン・ガンポは何度も唐との親善を心掛けていました。紀元634年、ソンツェン・ガンポは唐の都・長安まで使者を遣い、唐の太宗に姻戚関係を結びたいと求めましたが、これが叶いませんでした。紀元638年、ソンツェン・ガンポは大量の宝物を持ってプロポーズをする傍ら、自ら20万人の軍隊を率いて唐の松州(現在の中国四川省松潘県)を攻めようとしましたが、間もなく唐に敗れてしまい、プロポーズも失敗しました。そして紀元640年、ソンツェン・ガンポは三回目の和親を試みます。今回は前の教訓から学び、宰相のガル・トンツェンを使者として長安まで遣い、唐の太宗にまず謝罪をして、政略結婚を願い出ました。
チベット族の人々の間に、ソンツェン・ガンポの求婚にはこのようなエピソードが伝わっています。
ガル・トンツェンが吐蕃から長安に着いた時、天竺(インド)、大食(アラビア)、格薩爾(チベット)、霍爾(ウイグル)の指導者たちも同時に唐との政略結婚を求めています。唐の太宗は悩んだ末、三つのお題を出して、各国の使者の知恵を試し、最も知恵のある使者に王女を嫁がせるという公平な方法を考案しました。
一つ目のお題は、「絹を九つの曲がりくねった穴が穿たれた真珠に通せ」です。他の国の使者たちは頭を悩ませ、あらゆる手立てを尽くしたのに、どうやってもできませんでした。一方、ガル・トンツェンは小さなアリからヒントをもらいました。彼は一本の糸の片端をアリの体に結び、もう片端を絹に縫い付けます。次に、曲がりくねった穴の片端にハチミツを塗り付け、もう片端にアリを置きます。ハチミツに嗅ぎ付け、アリが糸を連れて真珠の曲がりくねった穴をくぐり抜けたところ、ガル・トンツェンは糸をゆっくりと引いて、見事に絹を真珠に通しました。
二つ目のお題は、「100頭の母馬と100頭の仔馬それぞれの母子関係を識別せよ」です。他の国の使者たちは毛の色や身長などで分けようとしましたが、どれも失敗してしまいました。一方、ガル・トンツェンは、母馬と仔馬を分けて、仔馬に水を与えず餌だけを与え、翌日仔馬を母馬のところに戻します。のどが渇いてたまらない仔馬たちは、次々と自分の母親の乳を飲むために駆け寄ります。こうして母子関係は簡単に識別できました。
三つ目のお題は、「100本の太さが同じの木材の根元と先端を区別せよ」です。他の国の使者たちが手も足も出ない中、ガル・トンツェンは木材を全て池の中に押し込みます。木材の根元が重いため水の中に沈みますが、先端は軽いため水面に浮かびますので、根元と先端は簡単に区別できました。
三つのお題を経て、唐の太宗は賢いガル・トンツェンの背後の繁栄している吐蕃を見えたそうで、喜んで吐蕃の求婚を受け、王女・文成公主を吐蕃のツェンポであるソンツェン・ガンポに嫁がせました。ガル・トンツェンの知恵により、ソンツェン・ガンポの念願が叶っただけでなく、唐と吐蕃の両国の平和が実現できました。

唐貞観十五年(紀元641年)、唐の礼部尚書の李道宗の護衛に伴い、文成公主は結納品の釈迦牟尼の仏像、仏教経典360巻、様々な珍宝を持参して吐蕃に入ります。ソンツェン・ガンポは標高3,700メートルのマルポリの丘の上にポタラ宮を建設し、自ら迎親(げいしん)の行列を率いてラサから青海(現在の中国青海省)まで赴き、文成公主を出迎えました。李道宗に接見する際、ソンツェン・ガンポは婿としての礼をしました。「唐の王女を妃として迎えることができて、とても光栄です。王女のために城を建て、吐蕃の子孫たちに王女の栄光を胸に刻み、未来永劫、唐との友好関係を保ちます」と感慨深く話したソンツェン・ガンポは、唐の建築に倣い、大規模な土木工事を行い、多くの城郭と宮殿を建設しました。その中の一つは、私たちが今日目にする大昭寺(トゥルナン寺)です。
ソンツェン・ガンポは唐の文化をとても尊重していました。彼は唐朝の制度を模倣し、政治、軍事、経済、文化の分野で大胆な改革を実施し、チベット社会の発展を促進しました。吐蕃貴族の子弟たちを長安まで遣わし文化を勉強させ、吐蕃人の文化水準を向上させようとしました。一方、吐蕃入りした文成公主は、唐の文化と技術を吐蕃に連れてきて、吐蕃の政治、経済、文化の発展を全面的に促進し、漢族とチベット族の間の連携と団結に重要な貢献をしたため、吐蕃の人々の尊敬を受けています。ソンツェン・ガンポと文成公主の功績を讃えるため、吐蕃の有志たちが二人のために造った像は、現在もポタラ宮に保存されています。
(文・戴東尼/翻訳編集・常夏)
