6月のある金曜日の夜、香港・尖沙咀地区は、相変わらず多くの人で賑わっていました。しかし、この香港屈指の観光とショッピングの中心地にある「王子麺館」には、客の姿がまったくありませんでした。人々は隣に新しくオープンした「和府撈麺」に次々と流れていったのです。

 和府撈麺は中国本土発のチェーン店で、内装はモダンで広々としています。価格は王子麺館とほぼ同じです。しかし、明らかに多くの客を惹きつけている様です。

 「昨年12月に和府撈麺がオープンして以来、うちの商売は半分も奪われました。本土のオーナーは資金力があって、一流の内装にお金をかけられるんです」と、40代の王子麺館の従業員・馮さんは『日経アジア』に語っています。和府撈麺は、香港市場に進出している数多くの中国本土ブランドの一つに過ぎません。近年、タピオカミルクティーやチェーンレストラン、スポーツウェア、電気自動車、さらには金製品の小売まで、多岐にわたる中国本土企業が香港の街角に進出しています。中国のEC大手アリババも、香港で実店舗を展開しています。こうした「新しい顔ぶれ」が、香港の商業構造を静かに変えつつあります。この都市はますます中国本土の大都市のような姿を帯びています。

 香港投資推広署のデータによると、2024年には香港に新規進出した中国本土企業の数が、初めて外資系企業を上回りました。本土企業は合計273社にのぼり、業種はテクノロジー、金融サービス、ファミリーオフィス、観光、消費ブランドなど多岐にわたっています。一方、同じ期間に進出した外資系企業は266社にとどまりました。

 2022年には、本土企業の進出はわずか92社で、当時の外資系企業(208社)の半分にもta達しませんでした。しかし、この2年で急増しています。

 また、香港中原地産顧問のデータによると、今年新たに香港に進出した小売ブランドのうち35%が中国本土企業で、昨年の29%から大きく上昇しました。例えば、中国本土のファッションブランド「アーバンレヴィヴォ(Urban Revivo)」は今年、尖沙咀のハーバーシティ(Harbour City)に初の店舗を開設しました。香港の賃料低下を好機と捉え、市場参入を進めています。

 飲食業界でも同様の動きが見られます。2024年10月、中国本土発の新しいティーブランド「トゥ・ティープレッソ(To Teapresso)」が尖沙咀に1号店をオープンしました。「香港式ティードリンク」というコンセプトを掲げ、香港を海外展開の足がかりとして活用しています。さらに2025年6月には、中国本土の海南チキン火鍋チェーン「Runseason(らんしーずん)」が銅鑼湾に初出店し、香港をヨーロッパ市場進出の戦略拠点と位置づけています。

 しかし、すべての本土ブランドが香港市場で成功しているわけではありません。例えば、10か月前に旺角に出店した中国本土のレモンティーブランド「LMM」は、月額家賃約7万香港ドルという高額な負担に耐えきれず、わずか1年足らずで閉店に追い込まれました。

 一方、香港の地元消費者が深圳に買い物に出かける動きも強まっています。『南華早報』や『ザ・ディプロマット』によると、中国本土での価格の安さや品揃えの豊富さに魅力を感じ、香港市民が深圳での消費を増やしています。これにより、香港の実店舗の売上はさらに圧迫されているのが現実です。そのため、多くの老舗や個人商店が閉店を余儀なくされています。

 苦境に立たされているのは、地元の小規模店舗だけではありません。国際ブランドもまた、中国本土企業との激しい競争に苦しんでいます。中国のフードデリバリー大手・美団は、2023年に海外ブランド「Keeta」として香港市場に参入し、大規模な割引や補助金を武器に急速にシェアを拡大しました。その結果、他の競合企業が太刀打ちできなくなり、10年前に香港市場に参入したイギリスのフードデリバリーサービス「デリバルー」は、最終的に2025年3月に香港から撤退することを発表しました。また、中国本土系ではないものの、複数の欧州チェーンレストランも近年、相次いで香港市場から撤退や規模縮小を余儀なくされており、香港の商業環境が中国本土企業のビジネスモデルへ急速に置き換わりつつある現状が浮き彫りになっています。

 中国本土企業の大規模な進出は、香港の街並みを一見華やかにしています。しかし、その背後には、より深刻な政治的・経済的変化が潜んでいます。2019年に中国当局が「国家安全法」を施行して以降、高度な自治と自由を誇っていた香港は、徐々にかつての開放的な空気を失いつつあります。

 特に新型コロナのパンデミック後、尖沙咀など観光エリアでは空き店舗率が急増し、今年5月までに小売業の売上は14か月連続で減少しています。さらに、中国本土の経済減速も影響し、香港が長年頼りにしてきた本土からの観光客による消費が明らかに減少し、全体的な支出も縮小しています。

 フランスの投資銀行ナティクシスの上級エコノミスト、呉卓殷氏は「中国本土ブランドが香港市場で存在感を強めることで、香港独自のアイデンティティが失われてしまう可能性があります。香港が中国本土とは異なり、独自に提供できるものとは、いったい何なのでしょうか?」と警鐘を鳴らしています。

(翻訳・吉原木子)