6月10日早朝、安徽省宿州市埇橋区解集鎮で、薄曇りの空の下、まだ土の湿り気が残るジャガイモ畑に、ライトを手にした人影が列をなして押し寄せました。鍬を振りかざして土を掘り返す者、掘り出した芋を素早く袋に詰め込む者、さらには寝具や弁当まで抱えて夜通し畑を占拠する家族連れまでいて、夜が白むころには地面が所々えぐれていました。畑を請け負った曾さんは、「何が起きているのか理解する前に、人が波のように押し寄せた」と振り返ります。ピーク時には一日あたり500〜1000人がひしめき合い、わずか数日で50トン近いジャガイモが姿を消しました。市場換算で数十万元、曾さんにとって一年分の売上が、まるで砂が指の間からこぼれ落ちるように失われたのです。

 警察は出動し、事件として受理したものの、現場で対応した警官は「大勢を一括で立件するのは難しい」と漏らしました。この言葉がネット上で瞬く間に拡散し、「多数なら罪に問われないのか」という怒りと諦めが交錯する議論を呼び起こしました。農作物は本来、生産者が自由に処分できる財産です。しかし中国農村では、請負者、村の自治組織、鎮政府が複雑に権利を分け合い、境界があいまいなまま「慣習」で回してきた歴史があります。ある村民は「俺たちの土地で育った芋を少し持ち帰っただけだ」と開き直り、別の村民は「みんなやっているので悪いこととは思わなかった」と語りました。「多数の行為は個人の罪を薄める」という心理が、暗黙の免罪符として機能してしまったのです。
 
 では、食料不足でもない現代に、なぜ家族総出で芋を奪い合う光景が生まれたのでしょうか。その背景にあるのは、依然として大都市と農村の所得格差です。政府統計によると、2024年の農村住民の一人当たり可処分所得は23,119元で、都市部の4割程度にとどまります。教育や医療など公的サービスは都市に集中し、農村では病気や事故一つで生活が傾く家庭も珍しくありません。低所得と社会保障の不足が重なれば、「少し拝借するくらいなら生活の足しになる」という心情が芽生えやすく、誰かが最初に手を出せば、一気に集団行動へと雪崩を打つのです。
 
 こうした心情には、半世紀前の文化大革命が残した心理的な影も重なります。闘争を奨励し、協調より奪取を称賛した10年間の運動は、農村社会の互助ネットワークと契約観念を深く崩しました。その後も文化大革命によって失われた、法的にも社会的にもこれは自分、あるいは他人のモノだから勝手に奪えないという財産権意識を再構築する取り組みは続いています。しかし、「奪った者勝ち」という価値観が完全に払拭されたわけではありません。今回、村民の一人が請負者に対し、「彼らは都会の商売人。畑が余るくらいジャガイモを植えている」と語った発言は、“外から来た請負者は村の利益をかすめ取る存在”という根強い不信感がにじみます。改革開放以降、農業税の廃止やインフラ整備が進んだとはいえ、土地と戸籍を軸にした都市農村の二元構造は温存されたままです。農民は自らの土地を自由に売買できず、工業化の利益配分にも十分に参画できません。請負者は地代や資材費、借入金の利息を背負いながら生産リスクを引き受け、村人からは「外の人」と見なされます。行政が仲立ちして法的紛争処理や利益共有の枠組みを整えない限り、こうした摩擦は「住民対請負者」のゼロサムゲームに転じやすいのです。
 
 また、中国農村では「自分の手元にあるものだけが確実な資産」という考え方が、生活防衛の知恵として浸透しています。10元札一枚の重みが大きい家庭にとって、袋いっぱいのジャガイモは数日の食糧であり、市場に持って行けば現金収入にもなります。これは単なる欲ではなく、制度的セーフティネットが薄い社会で身についた生存戦略といえるでしょう。
 
 こうした集団略奪を再発させないために必要なのは、第一に財産権を具体的に守る仕組みです。村レベルで素早く損害賠償を算定し、加害者を個別に責任追及できる手続を定着させれば、「大勢だから捕まらない」という通念は崩れます。第二に、土地流通を透明化し、請負者と地元住民が利益を分かち合える協定を導入することです。共同出資の小規模加工場やブランド化プロジェクトのように、「奪うより協力した方が得をする」状況を作り出せば、摩擦は協働に変わります。第三に、教育・医療・年金といった公共サービスの底上げです。最低限の生活が制度的に保証されるようになれば、略奪行為はリスクの高い行動として自ずと敬遠されるでしょう。
 
 宿州のジャガイモ事件は、海南のバナナ、湖北のスイカ、浙江のアワビなど、各地で繰り返される「収穫物略奪ニュース」の最新例にすぎません。「民度が低い」と嘆く前に、なぜ「低所得」と「低安心感」が制度の狭間に取り残されたままなのかを問う必要があります。農村住民が都市住民と同じ法的保護と発展機会を享受できるようになって初めて、文化大革命が残した奪取の論理は真に後退します。そのとき、ジャガイモの葉が風にそよぐ畑は「最後の命綱」ではなく、地域の誇りと共通の富を生む場所へと変わるはずです。

(翻訳・吉原木子)