2025年6月2日早朝、北京市の天安門広場で行われた国旗掲揚式の最中に、一人の若い男性が突然観衆の中から飛び出し、複数の柵を越えて国旗に向かって走るという突発的な事件が発生しました。この出来事は、天安門事件から36年という節目を目前に控えたタイミングで起きたものであり、当局の厳重な警備体制と「記憶の封印」が再び注目を集めることとなりました。

 ネット上に投稿された動画によりますと、この青年は黒い服を着て眼鏡をかけており、観衆の中から突然飛び出すと、第一の柵を乗り越えて掲揚区域の通路を駆け抜け、さらに低いフェンスを飛び越えて旗竿に向かって一直線に走りました。直後に右後方から接近してきた私服警官が青年を取り押さえ、複数の軍人と警察官が加勢して地面に押さえつけた後、顔を下に向けた状態のままイヴェコ社製の警察車両に連行しました。

 現場では警備員が「撮影しないでください」と叫び、スマートフォンでの撮影を制止しようとする場面も見られました。一連の様子は一部の市民によって録画され、SNS上に投稿されると、瞬く間に拡散されました。

 SNSでは、「これは六四(天安門事件)への挑戦だ」「人民のための国旗に、人民が近づけないとは」「この広場は人民のものではなく、軍と私服警官のものだ」などといった鋭いコメントが相次ぎました。国旗掲揚という国家の象徴的儀式が、民衆の緊張と警戒心に包まれる状況に、多くのネットユーザーが皮肉や怒りを込めた投稿を寄せました。

 また、「警察車両があらかじめ現場に待機していたことは、当局がこのような事態を事前に想定し、綿密な対策を講じていた証拠だ」と指摘する声も見られました。このような反応からは、中国の治安維持体制の厳格さと、突発的な行動に対する即応性が改めて浮き彫りとなっています。

 こうした警備体制の強化は、例年6月に近づくと常態化しており、今年も例外ではありません。自由アジア放送によりますと、北京市や各地の人権活動家、弁護士、記者などが相次いで公安当局から「呼び出し」や「自宅での監視」を受けており、「6月初旬は外出せず、自宅で待機するように」と通告されたケースが多く報告されています。

 中国では天安門事件を語ることが厳しく制限されており、SNSでは「六四」「1989年」「鎮圧」「戦車」などの関連キーワードが検索できない状態となっています。関連する投稿は自動検閲システムにより即座に削除され、アカウントの凍結や停止も頻繁に行われています。

 若い世代の多くは、事件について学校教育で教えられておらず、その存在自体を知らないまま成人している現状があります。

 ウィキペディアによりますと、中国国内には60件以上のインターネット検閲関連の法令が存在し、とくに6月前後は規制が一層厳しくなります。投稿内容の削除、キーワードの遮断、通信履歴の追跡などが常態化しています。

 こうした統制は近年始まったものではなく、過去にも同様の事例が報告されています。たとえば2018年には、米「ボイス・オブ・アメリカ」が、天安門事件29周年を前に、北京市の人権派弁護士・余文生氏の妻である許艶氏が、警察と正体不明の人物により24時間監視され、日常生活すら制限されていたと報じています。

 天安門事件は、今なお中国社会において最大のタブーとされている歴史的出来事です。1989年6月4日未明、民主化を求めて北京市の天安門広場に集まった学生や市民に対し、中国政府は武装した軍隊を投入し、実弾を使用して強制的に排除しました。事件による死者数はいまだに明らかにされておらず、国内では報道も教育もすべて禁じられています。

 この事件の発端は、1989年4月15日に共産党中央の元総書記・胡耀邦氏が死去したことでした。胡氏は在任中に政治改革を進め、寛容な姿勢を示していたことから、学生や知識人の間で広く敬愛されていました。その死去により、多くの大学生たちが自発的に天安門広場へ集まり、追悼とともに政府への改革要求を訴えるようになりました。

 学生たちは「胡耀邦の名誉回復」「官僚主義の是正」「報道の自由」「民主的対話の実現」など、七つの要求を掲げて抗議を続けました。当初は平和的な集会でしたが、4月26日に『人民日報』が「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」という社説を掲載し、学生運動を「動乱」と断定したことで、事態は一気に緊迫しました。

 5月13日には、数千人の学生が天安門広場でハンガーストライキを開始し、政府との公開対話を要求しました。5月19日には当時の総書記・趙紫陽氏が広場を訪れ、涙ながらに学生たちに絶食をやめるよう訴えましたが、効果はなく、まもなく趙氏は失脚し、自宅軟禁状態のまま亡くなりました。

 5月20日には李鵬首相(当時)によって北京市内に戒厳令が発令され、数十万の軍隊が市内に進軍しました。そして6月3日深夜から4日未明にかけて、木樨地、西単、長安街などの市街地で市民と軍が衝突し、戦車や自動小銃が使用されました。多くの無辜の市民が命を落とし、天安門広場は午前4時頃に完全に制圧されました。

 事件後、中国政府は関係者の大量逮捕に踏み切り、多くの学生リーダーは海外に亡命しました。国内では事件に関する言及が徹底的に封じられ、学校でも報道機関でも一切教えられることはありませんでした。これにより、現在の若者世代の多くは天安門事件の詳細を知らずに育っています。

 一方、事件は国際社会にも強い衝撃を与えました。アメリカやヨーロッパ諸国は中国政府の行為を厳しく非難し、経済制裁や外交関係の見直しを行いました。一時的に中国は国際的な孤立状態に陥りましたが、数年後には経済成長と市場開放を武器に各国との関係を修復していきました。それでも「六四事件」は、今なお中国の国際的評価において大きな陰を落とし続けています。

 香港では長年にわたり、6月4日にヴィクトリア・パークで追悼集会が開かれていましたが、国家安全維持法の施行以降は事実上禁止され、主催者の多くが逮捕・起訴されました。それでも海外に住む中国人留学生や市民団体は、SNSや匿名メディアを通じて追悼活動を続けています。

 今回の天安門広場での「旗に向かって駆け出した青年」の行動も、こうした記憶の継承の一環と考えられます。数秒で取り押さえられたものの、その行為は、中国社会において個人の勇気がいかに強く抑圧されているか、そしてそれでも人は自由と真実を求めて動き出すのだという強いメッセージを残しました。

(翻訳・吉原木子)