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 2024年のパリオリンピックとパラリンピックが先日終わりました。選手たちが私たちに与えてくれた感動は、今も鮮明に心に残っています。アスリートたちが打ち立てた数々の世界記録は、私たちにも自己の限界に挑戦する勇気を与えてくれます。そこで、今回の記事では、オリンピックがまだなかった時代に、中国の古代の人々が長距離走や短距離走などの種目で達成した陸上競技の記録をご紹介します。

長距離走

1.一日中走り続けた「夸父(こほ)」

 「太陽と競走する夸父」の神話は、『山海経』『列子』『淮南子』など、複数の古典に記録されています。この神話は、夸父と太陽が長距離走の競争をしたと見なすことができ、世界最古の耐久走の物語とも言えるでしょう。
 北の地に住む夸父族の部落の人たちは、太陽の移動が早すぎて、十分に暖めてくれないことに長らく不満に思っていました。そこで、部落は足が速い若者「夸父」を遣わし、太陽を捕まえて永遠に空に留めておこうとしたのです。
 夸父は太陽を追って、朝から晩まで走り続け、ようやく禺谷という場所で太陽に追いつきました。一日中走り回ったため喉が渇き、渭河の水を飲み干し、さらに黄河の水まで飲み尽くしました。北方の大きな沼まで水を飲みに向かおうとしましたが、途中で力が尽きて死んでしまいました。その後、彼の体は自然の一部となり、毛髪は草木に、体から出た脂や血は川に、そして持っていた杖は桃の木林に変わりました。

2.馬車との競走で優勝した「令」

 古代中国には、並外れた長距離走の達人が多くいました。例えば、西周の『令鼎(れいてい)』の銘文には、周の成王が臣下たちとともに「淇田場」という場所で春播きを行い、その後、弓術の試合を行ったと記されています。
 一連の行事が終わり、王宮へ戻る途中、「令」という名の下級役人が成王の護衛として馬車に付いていました。周成王は思い付きで、「令よ、もし私の馬車にずっとついてきて、王宮まで走り切ることができれば、お前に褒美をやるとしよう」と言いました。
 すると、成王の御者は馬を激しく駆り、車はものすごい速さで走り抜けました。令はそれにぴったりとついていき、馬車と共に王宮に到着しました。周成王は約束通り、令に褒美を与えました。令は鼎を鋳造し、その出来事を鼎に刻みました。
 この物語を見ると、令が馬車と競走できるほど、優れた長距離走の能力を持っていることが分かります。

3.長距離走の最高記録:1時間競走=12km

 元末明初を生きた学者・陶宗儀(とう・そうぎ)は、『南村輟耕錄』という書物の中で、元朝には「貴由赤」と呼ばれる長距離走の競技が毎年開催されていたと記載しています。皇帝のいらっしゃる都城に沿って、二種類の競走コースが設けられていました。一つは河西務(現在の天津市武清区轄)から大都(現在の北京市)までのコース、もう一つは泥河児(現在の河北省張家口市沽源県北)から上都(開平、現在の内モンゴル自治区シリンゴル盟轄)までのコースでした①。競技の公平のために、特別に派遣された役人がロープで参加者をスタートラインに揃え、競技開始とともにロープを下ろしました。参加者たちは約6時間かけて180里(約72km)を走り抜き、皇帝の前に跪き、万歳と叫びました。最初にゴールした参加者には銀一餅の賞金が与えられ、他の参加者も成績に応じて、絹や布などの賞品が贈られました②。
 6時間かけて180里を走るということは、1時間あたり約12kmを走り続ける計算になります。ちなみに、現代における「1時間競走」の世界記録(男子)は、2020年9月4日、イギリスの陸上競技選手モハメド・ファラーさんが打ち立てた「21.330km」でした。

短距離走

1.秦漢時代以降の偵察兵、ほぼ全員が短距離走の達人

 秦漢以降、歩兵は依然として軍隊における主な兵種でしたが、大規模な歩兵同士の戦闘はめったに見られなくなりました。その代わりに、歩兵と騎兵が混成した部隊による戦闘が増加し、長距離の追撃は騎兵が行うようになり、歩兵は主に短距離での突撃作戦に特化しました。そのため、歩兵の訓練では短距離走が重視されるようになりました。
 唐王朝期の兵書『太白陰經』には、「敵の情報を偵察し、情報を伝えるには、迅速な動きが求められるため、足が速い者を使うべきである」と記されています③。
 『宋史・兵志』に記載されている宋王朝の兵士募集の規定によると、新しい兵士を募集する際、応募者の人となりを審査するほか、走ることと跳ぶことが兵士になるための必須条件となりました④。
 明の武将である戚継光は、兵士訓練の経験をまとめた『紀效新書』の中で、「平素、兵士たちは皆、速足で走ることを学ぶべきである。一気に一里(約500m)を走りきって、息切れしないことが理想だ』と述べています⑤。
 こうして見ると、どの時代においても、兵士の訓練では短距離走が重視されていたことがわかります。

2.短距離走の訓練方法:重りをつけたトレーニング

 短距離走の能力を高めるために、古代中国では訓練を通じて多くの貴重な経験が蓄積され、重りを付けて走るというトレーニング方法が生み出されました。
 『宋史・岳飛伝』によると、岳飛は軍隊の走ることと跳ぶことの訓練をとても重視していました。休息時間には、兵士たちに「注坡」と「跳壕」の訓練を行わせました。「注坡」とは坂道を上り下りすること、「跳壕」とは遠くへ跳ぶことです。腿の筋肉を鍛えるために、普段の訓練では二重の鎧を着て体重を増やし、坂道の上り下りや遠くへ跳ぶ練習をしました。そのため、実際に戦場へ出るときには鎧を一枚脱ぎ捨てれば、より速く走り、遠くへ跳ぶことができるようになったのです。⑥
 戚継光は『紀效新書』の中で、「昔の人は砂袋を足に付けて、徐々に重さを増やし、いざという時には砂袋を外せば、身軽に動けるようになる。これは足の力を鍛えるための訓練法である⑤」と述べています。砂袋を足に付けるというのは、つまり足に重りを付けてトレーニングをすることで、これは腿の筋肉を鍛えるためのとても効果的な方法です。この方法は、現在でも多くの陸上競技のコーチによって採用されています。

3.短距離走の最高記録:100メートル競走=10秒

 古代中国の軍事訓練では、短距離走が非常に重視されており、優れた短距離走の達人が輩出しました。短距離走は戦場で素早く動き回るために不可欠な能力であったため、古代中国の歴史書では、優れた武将に対して「馬のように走れる」や「馬が追いつけないほど速く走れる」といったような、その脚力の速さを表す表現がしばしば用いられました。
 『北史・楊大眼伝』によると、北魏の孝文帝が南征を企て、兵部尚書である李沖(り・ちゅう)に優秀な兵士を選抜するよう命じました。幼い頃から足が速かった楊大眼(よう・たいがん)は応募し、武芸の試験を受けましたが、残念ながら合格できませんでした。しかし、楊大眼は諦めずに短距離走の試験を申し出ました。そして、頭上に三丈の長縄を結びつけ、走り出したところ、その長縄が矢のようにまっすぐ後ろになびくほど、楊大眼はすごく速く走りました。その驚くべき速さに、李沖は「このような優れた才能を持った人物は、千年たっても現れないだろう」と感嘆し、楊大眼を先鋒官に抜擢しました。⑦
 この記述には具体的なタイムは記されていませんが、3丈の縄がまっすぐ後ろになびくという状況から、楊大眼は100メートルを10秒以内で走っていたと推測できます。つまり、古代中国で最も速い短距離走の記録は、少なくとも100メートルを10秒で走るという記録があったと言えるでしょう。
 現代における「100メートル競走」の世界記録(男子)は、ご存知の通り、2009年8月16日、ジャマイカの陸上競技選手ウサイン・ボルトさんが打ち立てた「9秒58」でした。

(つづく)


①フビライは開平府を上都とし、金の都であった中都(かての燕京、現在の北京に当たる)とともに首都とした。つまり、二つの都を置く両京制としたのであり、夏期は上都、冬期は中都で執務した。
中国語原文:貴由赤者快行是也。每歲一試之,名曰「放走」,以腳力便捷者膺上賞,故監臨之官,齊其名數而約之以繩,使無後先參差之爭,然後去繩放行。在大都則自河西務起程,若上都則自泥河兒起,程、越三時走一百八十里,直抵御前,俯伏呼萬歲,先至者賜銀一餅,餘者賜段匹有差。(『南村輟耕錄』より)
中国語原文:探報計期使疾足之士,(中略)此謂任才之道、選士之術也。(『太白陰經・卷二<選士篇>』より)
中国語原文:方其募時,先度人材,次閱走躍,試瞻視,然後黵麵,賜以緡錢、衣履而隸諸籍。(『宋史・兵志第七』より)
中国語原文:凡平時各兵須學趨跑,一氣跑得一里,不氣喘才好。如古人足囊以沙,漸漸加之,臨敵去沙,自然輕便。是練足之力。(『紀效新書・比較武藝賞罰篇』より)
中国語原文:師每休舍,課將士注坡跳壕,皆重鎧習之。(『宋史・列傳第一百二十四』より)
中国語原文:楊大眼,武都氐難當之孫也。少驍捷,跳走如飛。(中略)時將南伐,尚書李沖典選征官,大眼往求焉,沖弗許。大眼曰:「尚書不見知,聽下官出一技。」便出長繩三丈許,系髻而走,繩直如矢,馬馳不及。見者無不驚歎。沖因曰:「千載以來,未有逸材若此者也。」遂用為軍主。(『北史・列傳第二十五』より)

(翻訳・宴楽)