『清明上河図』は宋王朝時代の漢方の状況を反映している。絵の中には、接骨医の隣に薬屋があり、看板には「本堂法制應症薬剤」と表示されている。(清院本『清明上河図』一部、 パブリック・ドメイン)

 中国の武漢で発生した新型肺炎によるグローバル的な恐慌の最中。かつて、中国の古代にも幾度疫病が蔓延した。その記録が多く残されている。さて、先人らはどのように疫病に対処したのか。

 疫病は往々にして他の災害と一生に発生する。中国の歴史上最も古く、疫病にいての記録があったのは周の時代である。『春秋公羊伝』によると、紀元前674年の夏に起こった「斉大災」が記されている。それ以降も疫病の記録が絶えなかった。疫病が社会にもたらす大きな影響に際し、中国の古代ではさまざまな予防や統制が行われた。主に6つの対策にまとめられる。

 一つ目は節気に順応すること。秦の書籍『礼記・月令』には、「春に夏の政令を施せば、風雨が不調になり、草木が枯れ、国は恐慌に陥ってしまう。春に秋の政令を施せば、百姓は疫病に見舞われ、強風と暴雨が襲いかかる。春に冬の政令を施せば、洪水やひょうが降りかかり、作物が不作になってしまう」と記されている。このため、昔の人は節気を大事にしていた。

 二つ目は、疫鬼(えきき)を払うこと。疫鬼とは、先秦に中国の帝王の子が死んで化けたとされている。そのため、疫病が発生したときに、疫鬼を払う風習があった。

 三つ目は、衛生に注意を払うこと。南宋の真徳秀という役人が泉州に勤めていたとき、城内の排水溝に汚れが溜まっていたため、真徳秀はこのままでは疫病を引き起こしかねないとし、清掃を命じた。

 四つ目は、医者が各地で問診や薬を施すこと。各地で問診する制度は先秦時代からあった。『周礼・地官』には「司救」という役職があり、疫病が起きたときに各地で診療を行った。宋代は最も疫病を重視されていた。朝廷に勤める医者を疫病発生地に送るだけでなく、医療費もすべて朝廷が負担していた。中央から地方まで薬局を設置し、普段は手頃な価格で薬を販売し、疫病が流行ったときにはただで薬を配布していた。
 
 五つ目は病人の隔離である。『漢書・平帝紀』にはすでに病人を隔離するよるような記録があった。晋の時代には隔離制度ができ、病人を隔離する館まで設立された。宋の時代には朝廷が病人のために多くの療養機構を儲けた。その中でも1076年に趙卨が越州において建てたものが有名である。(『元豊類稿』19巻)

 六つ目は死体の処理である。死体にはウィルスが大量繁殖してしまうため、その処理が疫病を止めるのに重要な一環である。『周礼』には、先秦時代から死体を処理するやり方があった。それ以降、疫病が流行ると、朝廷が死体を埋めたりした。宋代には僧侶を招いて死体を埋めることを勧めたり、霊園を設置し、貧しくて埋葬できない死体を安置した。

疫病の処方

 中国には正式な漢方書籍だけでなく、医書に記されていない民間の処方も多くある。

 例えば、蘇軾の『王敏仲書』には「しょうが、ねぎ、豆を煮て飲むと、効く」と記されてあった。また、『靖康紀聞』には「黒豆を香りがでるまで炒め、カンゾウ(甘草)を黄色になるまで炒めて、二者を一緒に水でゆで、よく飲むと治る」と書いてあった。

 元王朝の人が書いた『辍耕録』にはルバーブを用いた治療がよく効くと記された。

(翻訳・北条)