清王朝期の男性の髪型(ネット写真)

 清の時代を描く映画やドラマに登場する男性の髪型はとても特徴的です。登場する全ての男性は、前頭部の髪を全部剃り、後頭部の毛髪を長く伸ばして三つ編みにしています。この髪型は、スキンヘッドと髪の毛の色の対比を陰陽に見立て「陰陽頭」と呼ばれています。映画やドラマを見て、清の時代の男性は皆、ずっと同じ「陰陽頭」という髪型だったと思っている人が多いようです。

 でも、本当にそうだったのでしょうか?

 実は、清の時代の男性の髪型は、ずっと「長い三つ編み」ではありませんでした。清の歴史上、男性の「辮髪(べんぱつ)」と呼ばれる髪型には、3回の変遷がみられ、それぞれに特徴がありました。ドラマでよく見られる「陰陽頭」と呼ばれる辮髪は、実際には清の後期になってから現れてきた髪型なのです。

 歴史的に見ると、漢族の男性は、成人すると髪を頭頂部に束ね、かぶりものをしていました。これは秦の時代から明の時代までの漢族男性の標準的な髪型として受け継がれてきていました。一方、満州族の男性の多くは、前頭部の髪の毛を剃り、後頭部の髪の毛を長い三つ編みにしていました。

 順治元年(1644年)、清の軍隊が山海関を開城し北京に入城した後、満州族の支配を強固にし、漢族を文化的にも同化させるため、ドルゴンをはじめとする満州族の貴族は「剃髪令(薙髪令)」を発令しました。新たな朝廷の命令により、漢族の人々や降伏した明の将兵たちは、服従の証として髪を剃られ髪型を変えさせられました。「頭を留めんとすれば髪を留めず、髪を留めんとすれば頭を留めず(首が欲しければ髪を剃れ、髪が欲しければ首を切れ)」と言われたほど強制的な命令に、一部の地域では大規模な抗議運動や激しい抵抗が起こりましたが、やがて清のほぼすべての男性が髪型を変えさせられました。

 清王朝期の初期、清の軍隊が山海関に入ってから乾隆帝の時代まで、当時の男性は「金銭鼠の尾」と呼ばれる辮髪で、細い三つ編みにする頭頂部のほんの一握りの毛髪だけを残し、他の部分を全て剃り落としていました。つまり、細い三つ編みだけを残した坊主頭なのです。三つ編みの太さにも規則があり、当時の銅貨の中心の小さな四角い穴を通らないと合格しませんでした。この「金銭鼠の尾」という辮髪は、約150年間続けられました。

 乾隆帝の時代になると、「金銭鼠の尾」という辮髪は徐々に変化し、坊主頭に残す髪の面積が手のひらサイズまで拡大し、細かった三つ編みも少し太くなりました。

 その後、嘉慶帝の時代、平和な時期が長年続いたことで「文字の獄」が廃止され、世論に対する統制も以前より緩和されたため、人々は美観を求め、次第に「金銭鼠の尾」から、三つ編みにするための毛髪を更に多くした「豚の尾」と呼ばれる三つ編みスタイルに発展しました。

 民衆が辮髪を変化させることを、朝廷が暗黙に容認したことで、その後の男性の辮髪への制限も次第に緩やかになりました。

 清の時代の後期になると、男性の辮髪に再び変遷が起こり、後頭部に残す髪の毛が更に多くなってきました。清の時代を描く映画やドラマで見慣れた「陰陽頭」が登場し始めたのもこの頃なのです。当時の清の男性の背中に、太く長い三つ編みが現れ始め、互いにそれを自慢していたそうです。

 こうして歴史を振り返ってみると、ドラマと史実の間にギャップがあることが分かります。清の時代を描く映画やドラマは史実に従わず、「金钱鼠の尾」や「豚の尾」を登場させないようにしているのは、美的な配慮によるものでしょう。

(文・隅心/翻訳・清水小桐)